HISTORICAL PERSON · 紀元前174年没

プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官)

共和政ローマの政務官。紀元前201年に執政官となりガリア・キサルピナでガリア人と戦い、インガウニ族と条約を結んだ。紀元前199年にはスキピオと共に監察官を務め、同僚を元老院第一人者に指名した。

生涯
紀元前174年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

プブリウス・アエリウス・パエトゥスは、共和政ローマの政務官で、紀元前201年に執政官、紀元前199年に監察官を務めた人物である。没年は紀元前174年。平民のアエリウス氏族の出で、この氏族で最初の執政官は紀元前337年の同名の人物であった。父はクィントゥスといい、神祇官を務め、紀元前217年の執政官選挙に落選し、紀元前216年のカンナエの戦いで戦死した。弟のセクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥスは紀元前198年に執政官となり、紀元前194年に監察官を務めた。弟は法学者としても知られ、パエトゥス自身も法学者であった。父の祖先には、紀元前337年の執政官や紀元前286年の執政官ガイウス・アエリウス・パエトゥスがいた可能性がある。息子のクィントゥスは紀元前167年に執政官となっている。

経歴は紀元前208年、マルクス・クラウディウス・マルケッルスの死去に伴い鳥占官に就任したことに始まる。紀元前204年には平民按察官に選ばれ、同僚のプブリウス・ウィッリウス・タップルスとともに、スキピオの調査に同行したとされる。その年末の選挙で、翌紀元前203年の法務官に当選した。くじによって首都に留まり、裁判を担当した。ヌミディアのシュファクスを捕らえたことを、ガイウス・ラエリウスとともに民会で報告している。シュファクスの敗北を記念する感謝祭を行う提案や、ハンニバルがイタリアを去った年に5日間の感謝祭を行う提案も、パエトゥスによるものとされる。紀元前202年には、政務官選挙のために任命された独裁官ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスのもとで騎兵長官に指名された。伝統的な独裁官制度としては、これが最後であった。

紀元前201年、貴族のグナエウス・コルネリウス・レントゥルスとともに執政官に就いた。この年はスキピオがザマでハンニバルを破った年として記憶される。パエトゥスはイタリアを任地とし、反乱したガリア人と戦い、ボイイ族と争い、リグリア人のインガウニ族と条約を結んだ。レントゥルスは栄光を求めてアフリカへの出征を望んだが、パエトゥスは、レントゥルスがスキピオの邪魔をするのは無理だと考え、あえて反対しなかったとされる。年末にはローマに戻り、翌年の選挙を管理した。同じ年、スキピオのアフリカ遠征軍の退役兵にアプリアとサムニウムの土地を分配する十人委員会に、メテッルスやゲミヌス、タップルス、フラミニヌスらと選ばれ、翌年も務めた。

紀元前199年にはスキピオとともに監察官となり、同僚のスキピオを元老院第一人者に指名した。二人の監察は寛大で、誰の地位も剥奪しなかったという。また、弟セクストゥスやレントゥルスとともに、植民者の数が足りないと訴えたナルニアに入植者を追加する三人委員も務めた。紀元前196年には、フラミニヌスがピリッポス5世と交渉するのを補佐する十人の使節の一人に選ばれた。紀元前193年には、タップルスやスルピキウス・ガルバ・マクシムスとともにアンティオコス3世のもとへ派遣され、ペルガモンのエウメネス2世を訪ね、エフェソスでミノア王と会談した。この一連の会談の後、シリアとの戦争は避けられないことが明らかになった。

紀元前174年、流行病のために世を去った。鳥占官の後任には息子のクィントゥスが選ばれた。最古の法学者の一人と評価され、ポンポニウスも、この時代のローマで法学に最も通じた人々の一人に挙げている。

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