HISTORICAL PERSON · 1180年没

マヌエル1世コムネノス

東ローマ帝国コムネノス朝の第3代皇帝(在位1143〜80年)で、渾名は「偉大なる」の意のメガス。父の急死後に遺言で即位し、第2回十字軍に対応し、ノルマン人諸侯と組んで南イタリアへ遠征した。

生涯
1180年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

マヌエル1世コムネノスは、1118年11月28日に生まれ、1180年9月24日に没した東ローマ帝国コムネノス王朝の第3代皇帝(在位1143年〜1180年)である。第2代皇帝ヨハネス2世コムネノスと、ハンガリー王ラースロー1世の王女エイレーネーの子で、「メガス(偉大なる)」の渾名は、彼に仕えた者が非常な忠誠心を抱き、秘書や配下の将兵に賞賛されたことに由来するという。四男であったが、長兄と次兄が1142年に相次いで早世し、1143年に父が狩猟の事故で急死した結果、遺言で後継者に選ばれた。留守を預かっていた三兄イサキオスを拘束して機先を制し、戴冠式を挙げて即位し、のちにイサキオスを解放して和解した。

1146年には、父とドイツ王コンラート3世の間の約束に従い、コンラートの義妹ベルタ・フォン・ズルツバッハと結婚した。これはシチリア王ルッジェーロ2世の拡張政策に対抗するためだった。1147年、エデッサ伯国の陥落をきっかけに第2回十字軍が結成され、コンラート3世とフランス王ルイ7世の軍がコンスタンティノープルに到来した。マヌエルはルーム・セルジューク朝のスルタンと12年間の休戦条約を結んだばかりで、内心では十字軍の駐屯を快く思っていなかった。そのため対応は一貫せず、ドイツ軍に案内人を付けるなど一定の配慮をしながら圧力をかけて小アジアへ向かわせたが、案内人が失踪し、直後にドイツ軍はムスリム軍の襲撃で大敗して、ドイツ人の不信と怒りを買った。ルイ7世と王妃アリエノール・ダキテーヌらのフランス軍は盛大にもてなしたものの、物資は届かず、十字軍は成果のないまま解散した。この非協力的な態度から、歴史家には彼がムスリムと内通していたと疑う者もいるが、真相は明らかでない。

1148年冬にはコンラート3世と攻守同盟を結び、シチリア軍にギリシャ沿岸を略奪されたことへの対抗策とした。ところが1152年にコンラートが死去し、後を継いだフリードリヒ1世は協力せず、イタリア遠征は行き詰まった。そこでマヌエルは、シチリア王家に反発するノルマン人諸侯と手を組み、1155年に南イタリアへ遠征して、バーリを落とすなど緒戦は優勢で、1156年春にはプッリャ州の大部分を支配下に収めた。しかし、病から快復したシチリア王グリエルモ1世が自ら軍を率いて迫ると、諸侯や傭兵が次々に離脱し、5月28日のブリンディジの戦いで惨敗した。1158年3月には教皇の仲介でシチリアと和睦している。

同じ1158年の秋にはキリキア・シリア遠征に乗り出し、反乱を起こしたキリキア領主トロス2世を山間部へ追い、アンティオキア公ルノーには忠誠と軍事奉仕を誓わせた。1159年の復活祭のころには、ルノーやエルサレム王ボードゥアン3世らを従えてアンティオキアへ入城し、町の上級支配権が皇帝にあることを示した。1161年にはルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン2世がコンスタンティノープルを訪れ、盛大な歓迎を受けた。

しかし1171年3月12日、マヌエルは帝国領内のヴェネツィア人の一斉逮捕と財産没収を命じ、逮捕者は首都で1万人、全体で2万人ともいわれる。理由は諸説あって決定的とは言えず、ヴェネツィアは報復の艦隊を送ったが、島々の東ローマ軍の抵抗と疫病に苦しみ、1172年に撤退する途中、東ローマ艦隊の追撃で戦力を3分の1以下に減らした。

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