伝記
アンドロニコス1世コムネノスは、東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝で、在位は1183年から1185年である。生年ははっきりせず、1118年ごろとも1123年ともされ、没したのは1185年9月12日である。父はアレクシオス1世の三男である軍最高位のセバストクラトール、イサキオスで、母はグルジア王女カタ。皇帝マヌエル1世コムネノスの従弟にあたる。スペイン語版の資料は、彼をコムネノス家でおそらく最も輝かしく魅力のある人物とし、その波乱の生涯は、東ローマ皇帝の中でも特に小説的だと評している。
少年のころは同じ年ごろのマヌエルと共に学んで親しかったが、成長するにつれて二人の関係は悪化した。若い日の彼は軍務と快楽の日々を送り、1141年には狩りの最中にセルジューク軍に捕らえられて1年間、コンヤで囚われた。身代金が支払われると宮廷に戻ってマヌエルの寵臣となった。しかし、マヌエルが自分の甥ヨハネス・ドゥーカスを重く用いたことに傷つき、これを機に皇帝との関係は悪くなったという。復讐のつもりか、その妹エウドキアを愛人にしたとされる。1152年には、エウドキアを伴ってキリキアの総督に任じられ、反乱を起こしたアルメニア人の公を追いつめたが、役者の一座を連れて夜は遊びに耽り、夜襲を受けて敗れたと伝えられる。のちにも多くの女性と浮名を流し、最初の妻との間には2男1女があった。56歳のころには、エルサレム王ボードゥアン3世の未亡人テオドラと愛人関係になり、彼女との間に生まれた娘エイレーネーを、マヌエルの庶子アレクシオスに嫁がせた。その後は、エルサレム王国など諸国を流浪する生活を送った。
1180年にマヌエルが没し、12歳の子アレクシオス2世が跡を継いだ。政務は摂政となった生母マリアが行ったが、彼女がマヌエルと同じ親ラテン政策を採ったため、国民の不満が高まった。この不満を背景にアンドロニコスは1182年にクーデターを起こしてマリアを殺害し、翌1183年、アレクシオス2世の共同皇帝となった。約2か月後にはアレクシオスを殺害して単独の皇帝となり、アレクシオスの后だったフランス王女アンナを無理やり皇后とした。1182年5月には、彼を支持する集団が、コンスタンティノポリスに住むジェノヴァ人やピサ人の居住区を襲撃し、多数が殺されたり奴隷として売られたりする、いわゆるラテン人虐殺も起きている。
即位当初は、官職売買の禁止、汚職の摘発、減税、貧民の保護など積極的に改革を行い、民衆に支持された。しかし貴族や大地主層の反発を受け、先帝殺害の負い目もあって、次第に強圧的になり、恐怖政治を敷いたという。ハンガリー、セルビア、シチリア王国の侵攻でキプロスやバルカンの領土も失った。1185年にノルマン人がバルカンへ侵入して都に迫ると、パニックになった市民や貴族はイサキオス・アンゲロスを担いで蜂起した。アンドロニコスはわずか2年で廃位され、市民になぶり殺しにされた。同時代人は「彼のなかには二つの瓶がある。一つは善に満ち、もう一つは悪に満ちている」と評した。孫のアレクシオスは、1204年4月にトレビゾンド帝国を建てている。
同じ年に亡くなった人物
- Andronikos Doukas Angelos (1185年没)
- イブン・トファイル (1185年没)
- バースカラ2世 (1185年没)
- リクサ・シロンスカ (1185年没)
- ヨハネス・キンナモス (1185年)
同じ地域に関係する人物
- アーリ・パシャ (1871年没)
- アフメド・カラヒサーリー (1566年没)
- Constantine Leichoudes (1063年没)
- ヒュセイン・ニハル・アトスズ (1975年没)
- チャンダルル・ハリル・パシャ (1453年没)