HISTORICAL PERSON · 1185年没

ルキウス3世 (ローマ教皇)

ルッカ出身のローマ教皇(在位1181〜85年)で、本名ウバルド・アルチンゴリ。首席枢機卿まで昇った。トスカーナ女伯の遺領をめぐり皇帝フリードリヒ1世と対立し、カタリ派などを異端として破門した。

生涯
1185年没
死亡地
イタリア共和国(ヴェローナ県 / ヴェローナ)
出生地
イタリア共和国(ルッカ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴェローナ県)

伝記

ルキウス3世は、1181年から1185年11月25日に没するまで在位した12世紀のローマ教皇である。本名はウバルド・アルチンゴリという。生年は1100年ごろとされ、1097年ごろとする説もある。当時独立国だったルッカ共和国の生まれで、貴族オルランドの子であった。シトー修道会と近い関係にあったが、修道会に入ることはなかったようである。1138年12月、教皇インノケンティウス2世によって枢機卿に指名され、はじめサンアドリアノの助祭、1141年5月にはサンタプラシードの司祭となり、フランスへ教皇使節として送られた。エウゲニウス3世の下ではシチリアへの使節を務め、1158年12月または1159年1月に、ハドリアヌス4世によってオスティアおよびヴェッレトリの司教に昇格した。アレクサンデル3世の下では、枢機卿団の首席として強い影響力を持ち、1159年にはそのアレクサンデルに司教の叙階を行った。

1177年には、ヴェネツィア条約の交渉に加わった。この条約は、対立教皇を支持して破門されていた皇帝フリードリヒ1世と、アレクサンデル3世との間で結ばれたものである。彼は、トスカーナ女伯マティルデの旧領をめぐる調停にも関わったが、はっきりした結論は出なかった。1181年9月、ヴェッレトリで教皇に選ばれ、ルキウスを名乗った。同年11月にローマに入ったものの、市内の対立のため、1182年3月に町を離れた。以後、在位の大半をヴェッレトリ、アナーニ、ヴェローナで過ごした。ヴェッレトリでは、スコットランド王ウィリアムの使節を迎えて、セント・アンドルーズの司教職をめぐる争いを調停し、王の推す聖職者フーゴをその司教に、教会参事会が選んだヨハネスをダンケルドの司教にする妥協を成立させた。1183年3月には、好意の印として王に黄金のバラを贈り、同年9月にはセーニへ赴いて、その地の司教だったブルーノを聖人に列した。

在位中は、神聖ローマ帝国との関係が常に緊張していた。特に、女伯マティルデが残した領地をめぐって、フリードリヒ1世と対立した。1182年、皇帝は、教皇庁が領地の主張を放棄する代わりに、帝国がイタリアから得る収入の2割を、教皇に1割、枢機卿(司教ともいわれる)に1割ずつ分けると提案したが、ルキウスは応じなかった。翌年の別の妥協案にも同意せず、1184年10月にヴェローナで直接話し合ったが、解決しなかった。さらに、教皇分裂の時期にドイツで行われた司教選挙を皇帝が規制しようとし、特に1183年のトリーア大司教選挙の見直しを求めたが、これも受け入れなかった。1185年には、皇帝が後継者に指名したハインリヒ6世の戴冠を断り、両者の溝は深まる一方であった。

1184年11月、ヴェローナで教会会議を開き、カタリ派、パタリア派、ヴァルド派、アルノルド派などを異端として破門した。教皇勅書では、異端との戦いに加わらない伯や領主、都市の役人は破門するとした。この会議は、しばしば異端審問の起源のようにいわれるが、彼が異端審問を創設したわけではなく、それが整えられたのは1234年のグレゴリウス9世の代である。エルサレム王ボードゥアン4世の求めで第3回十字軍の準備が進められていた1185年11月、ルキウス3世はヴェローナで亡くなった。

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