伝記
ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスは、紀元前229年に生まれ、紀元前160年に没したとされる共和政ローマの政務官である。第二次ポエニ戦争後、主に東方でマケドニア王国との戦いに活躍した。アエミリウス氏族パウッルス家の出身で、父は同名のルキウス・アエミリウス・パウッルスである。
若い頃の経歴は、財務官を遅くとも紀元前195年までに務めたと碑文から読み取れ、翌年には植民市建設三人委員の一人としてクロトンへの入植を監督した。紀元前193年に造営官となると、多くの家畜から罰金を取り立てて、その金でユーピテル神殿への奉献やティベリス川の治水、回廊の整備を行った。やがて鳥卜官に選ばれ、紀元前191年には法務官に就いた。翌年はプロコンスル格でヒスパニア・ウルテリオルを担当し、ルシタニア人と戦って、初めは敗れたが、次の年には勝ったという。紀元前189年には、アンティオコス3世との条約締結のための十人の使節の一人となった。その後は執政官選挙に何度か敗れている。
紀元前182年に初めて執政官となり、同僚のグナエウス・バエビウス・タンピルスとリグリアを受け持った。翌年もプロコンスルとして同じ地域を担当したが、休戦協定を結んだのちに奇襲を受け、陣地に押し込められた。救援が遅れたため、パウッルスは打って出ることを決め、ハンニバルやピリッポス5世、アンティオコス3世のような強敵に比べれば、こそこそ逃げ回る強盗など敵ではないと兵を励ました。油断していた敵を破って降伏させ、海賊も鎮圧し、ローマでは三日間の感謝祭が開かれた。紀元前171年には、ヒスパニアの民が担当政務官による搾取を元老院で訴えた際、大カトらとともに彼らの側に立って弁護した。
紀元前168年に再び執政官に選ばれ、第三次マケドニア戦争でペルセウスと戦った。ピュドナの戦いでペルセウスを捕虜として戦争を終わらせ、アンティゴノス朝は滅びた。マケドニアでは対抗勢力500人を殺し、多数をローマに連行して財産を没収したとされる。脱走した外国人兵を象に踏み潰させたという逸話もある。戦後はギリシアを巡って各都市の自治権を回復し、デルポイのペルセウス像を自分のものに替えさせた。ペルセウスの財宝には目もくれず、関心を示したのは書物だけだったという。マケドニアは自治を回復し、従来の半分の年貢を納めることになった。一方、元老院が兵に略奪を許すと、エピルスで短時間のうちに70の町を荒らし、15万人が奴隷にされたという。
帰国後、取り分の少なさに不満を持った兵たちは、セルウィウス・スルピキウス・ガルバを中心に凱旋式に反対した。だが元老院議員たちが投票を止めさせ、説得の末に挙行が可決された。式ではペルセウスの子供たちの姿が人々の憐れみを誘い、ペルセウス自身の懇願は冷たくはねつけられたとされるが、降伏直後には礼を尽くし、ギリシア語で励ましたという話も残る。この前後に二人の息子が亡くなった。元老院はマケドニクスの称号を与え、戦時特別税は廃止されたが、本人の財産は増えなかったという。紀元前164年には監察官に選ばれ、同僚はクィントゥス・マルキウス・ピリップス、人口調査では337,022人を数えた。紀元前160年に没したと考えられ、葬儀では、外交のためたまたま来ていたマケドニアの高官が馬車の費用を負担した。四人の息子のうち、二人は14歳と12歳で亡くし、残る二人はファビウス・マクシムスと、スキピオ・アフリカヌスの息子のもとへ養子に出て、のちのスキピオ・アエミリアヌスとなった。自身は農場を一つしか持たず、貧しい暮らしだったという。
同じ年に亡くなった人物
- Nicomedes II of Bithynia (紀元前160)
- カナーダ (紀元前 160年(推定))
- Nicomedes III of Bithynia (紀元前160)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・エブルヌス (紀元前 160年(推定))
- ラオディケ (ミトリダテス6世の妹かつ妻) (紀元前 160年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ベネディクトゥス1世 (ローマ教皇) (579年没)
- ピエトロ・オットボーニ (1740年没)
- エウティキアヌス (ローマ教皇) (283年没)
- マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス (238年没)
- ガブリエレ・ティンティ (1991年没)