HISTORICAL PERSON · 1200年没

朱熹

中国南宋の儒学者で、朱子学の創始者。「四書」を重視し、『論語』などに独自の注釈を加えて儒教を体系化した。19歳で科挙に合格し同安県の主簿を務め、のち祠禄の官として読書・著述と弟子の教育に励んだ。

生涯
1200年没
死亡地
中華人民共和国(甘粛省 / 中華人民共和国)
出生地
中華人民共和国(尤渓県)
出典
世界地図
中華人民共和国(甘粛省)

伝記

朱熹は、中国南宋の儒学者で、朱子学の創始者とされる人物である。建炎4年9月15日(1130年10月18日)に生まれ、慶元6年3月9日(1200年4月23日)に没した。字は元晦または仲晦、号は晦庵など、諡は文公である。本籍は歙州婺源県で、南剣州尤渓県に生まれ、建陽の考亭で亡くなった。儒教の精神と本質を明らかにして体系化し、その中興者となった。孔子から孟子へ続く道の伝統(道統)を説いて四書を重視し、北宋の程顥・程頤の兄弟、いわゆる二程とその後学の学を受け継いで、新たな注釈を作った。

父の朱松は、靖康の変に始まる金軍の侵攻を避けて福建の山間地を転々とし、尤渓県で朱熹が生まれた。朱松は金に対する主戦論を唱えたが、秦檜が政権を握ると中央政界を追われ、1143年に47歳で死去した。朱松は息子に、自分の友人である胡憲、劉勉之、劉子翬の三先生のもとで学ぶよう遺言した。幼いころから勉学に励み、5歳前後に「宇宙の外側はどうなっているのか」と考え詰めたことがあったという。朱熹は三先生に数年間師事して「為己の学」の方向性を定め、一時は禅宗にも傾いたが、儒教の古典に励んだ。紹興18年(1148年)、19歳の春に科挙に合格して進士となった。

24歳のころ泉州同安県の主簿として赴任し、帳簿の処理や県の学校行政に当たった。この間に李侗に出会い、師事して禅宗を捨て、以後10年にわたり教えを受けた。その後は約20年、実質的に官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ。生涯の官歴のうち、地方官として外にいたのは9年、朝廷に立ったのは40日にすぎないという。友人の張栻とは二十年近く交遊し、乾道3年(1167年)には長沙を訪ねて衡山に登った。乾道5年(1169年)春には蔡元定との議論で従来の解釈の誤りに気づき、李侗に学んだ「静」の修養を土台に、張栻の「動」の哲学を組み合わせて、後に「定論」とされる考えを確立した。40代は著作に最も励み、『近思録』『資治通鑑綱目』『詩集伝』などを著した。淳熙2年(1175年)には呂祖謙の仲介で陸象山と会見し、鵝湖の会で激しく議論したが、調停はならなかった。

政治家としても働いた。乾道4年(1168年)の建寧府の大飢饉では粟を貸し与えて民を救い、これがのちに社倉法として孝宗に献じられた。この制度は朱子学を通じて江戸時代の日本にも伝わったとされる。淳熙5年(1178年)に知南康軍となり、白鹿洞書院の復興などに尽力した。淳熙7年(1180年)には孝宗に上書して、重税を省くことや、政治が数人の権臣に牛耳られていることの是正を訴えた。しかし台州知事の唐仲友を執拗に弾劾するなど、激しい面もあった。紹熙5年(1194年)には寧宗の政治顧問に抜擢されたが、韓侂冑の怒りを買い、わずか45日で追われた。翌年から「偽学の禁」と呼ばれる弾圧が始まり、道学は排撃され、朱熹も激しい弾劾を受けた。1200年、不遇のうちに71歳で世を去った。

『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書に注釈を施した『四書集注』は、後に科挙の教科書とされ、四書が五経よりも重視される流れを作った。ほかに『易経』に注した『周易本義』や、儀礼の研究書『家礼』などがある。

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