伝記
曹沖は、中国後漢末期の人物である。字は倉舒。建安元年(196年)に生まれ、建安13年(208年)に早世した。父は後に魏の礎を築いた曹操で、同母の弟に曹拠・曹宇がいる。異母兄には曹昂・曹鑠・曹丕・曹彰・曹植・曹彪がいた。母は曹操の側室の環夫人とされる。幼いころから学問を好み、聡明なうえに心優しかったため、家臣からの信望も厚く、将来を嘱望されていた。
その聡明さを示す逸話として知られるのが、象の重さを量った話である。あるとき孫権から象が贈られてきた。曹操がその重さを臣下たちに尋ねたが、誰も答えられなかった。5歳だった曹沖は、象を船に乗せて水面の位置に印をつけ、象を下ろしてから同じ高さになるまで船に重しを積み、その重さを合計すればよいと述べた。曹操は大いに喜び、この方法を実行させたとされる。『三国志』には、このころの曹沖が大人のような知恵を備えていたと記されている。
もう一つの逸話は、鼠にかじられた鞍の件である。倉庫にしまっていた曹操の鞍が鼠にかじられた。当時これは不吉なこととされ、戦時の厳しい法のもとで、倉庫の管理者は処罰を恐れた。曹沖は管理者に、3日たってから自首するよう言い渡した。そのうえで自分の服に刃物で穴を開け、鼠にかじられたように見せて、悲しむふりをした。父に問われると、鼠に服をかじられた者には不幸が訪れるといわれると答えた。曹操は迷信にすぎないと一蹴した。3日後に管理者が自首すると、曹操は笑って、身につけていた服でさえ鼠にかじられるのだから、倉庫の鞍がかじられても不思議はないと言い、罪を問わなかった。この逸話には、服に穴を開けて見せることで、鼠が増えているのだから仕方がないと曹操に思わせ、管理者を無罪にしたのだという解釈もある。
曹沖は思いやりが深く、罪に問われた者の事件を見直して不当なものがないか調べ、数十件を救ったと伝えられる。懸命に働く役人が小さな過失で窮地に陥ったときには、そのために進言して曹操に赦させた。聡明さと優しさに加えて容姿も美しく、兄弟の中でひときわ抜きん出ていたため、父の寵愛を受けた。曹操はその才を溺愛し、臣下の前でしばしば曹沖をほめ、後継者にしようと考えていたほどで、一時は嫡子の曹丕よりも曹沖を立てようと思ったとされる。
しかし曹沖は13歳(または12歳)で重い病にかかり、世を去った。曹操の典医だった名医の華佗が曹操に殺されたことを知り、嘆きのあまり死んだともいわれる。病が重くなると、曹操は医者だけでなく、ふだんは馬鹿にしていた祈祷師まで各地から集めて祈らせたという。死後は、同じころに亡くなった甄家の娘の遺体を迎えて結婚式と葬式を同時に行ったとされ、吉川幸次郎はこれを冥婚の最も早い例の一つと述べている。曹操は痛恨の思いで嘆き悲しみ、曹沖の名が出るたびに涙を流した。慰めに来た曹丕に対しては、曹沖の死は自分にとっては不幸だが、お前たち兄弟にとっては幸運だと言ったという。曹沖には騎都尉の位が追贈され、曹拠の子の曹琮が跡継ぎとなり、217年には鄧侯に封じられた。曹丕が魏を建てた221年、曹沖は鄧哀侯の諡を贈られ、のちに公に進められて鄧哀公と呼ばれた。231年、曹丕の子の曹叡の時代に鄧哀王とされた。曹丕自身も、兄の曹昂が生きていても限りがあっただろうが、倉舒が生きていたなら自分は天下を得られなかっただろうと語ったと伝えられる。