伝記
シモンは、マカバイ戦争でユダヤ人を率いたユダ・マカバイの弟で、ハスモン朝の最初の統治者となった人物である。タシという別名をもち、この語には「賢者」「指導者」「助言の人」などの含みがあるとされる。在位は紀元前142年(紀元前141年とも)から紀元前135年(紀元前134年とも)で、大祭司の地位にも就いた。紀元前167年、父マタティアや兄ユダ、ヨナタンとともにセレウコス朝への蜂起に立ち上がり、ユダの下ではガリラヤのユダヤ人の救出を行った。続く弟ヨナタンの時代にもよく支えた。
セレウコス朝のアンティオコス6世は、ユダヤ人の成功を受けて特別な好意を示す必要に迫られ、シモンをティルスの梯からエジプトに至る沿岸地方の将軍に任じた。シモンはベテズルとヨッパを押さえてユダヤ人の部隊を置き、アディダの要塞も築いた。ところが、ヨナタンがセレウコス朝の将軍ディオドトス・トリュフォンに捕らえられると、エルサレムに集まった民に推されて指導者となった。紀元前143年のこととも紀元前142年のこととも伝えられる。シモンはただちにエルサレムの防備を仕上げ、ヨッパを固めた。シリア王位を狙って国内に入ろうとしたトリュフォンの進軍はハディドで阻んだ。トリュフォンはヨナタンの身代金とその息子たちの人質を要求し、シモンは欺かれると知りながら、兄のために手を尽くしたと民に示すべく両方に応じた。それでもヨナタンは処刑され、人質も戻らなかった。シモンは遺体を引き取って故郷モディンに葬り、両親と兄弟のためにギリシア風の装飾を施したピラミッドを建てた。
シモンはトリュフォンに対抗してデメトリオス2世ニカトルの側につき、使節を送って課税の免除を求めた。これが認められたことで、紀元前142年にユダヤの政治的独立が事実上認められたことになる。公文書や契約書には「ユダヤ人の大祭司、将軍、指導者たるシモンの第一年」と記されるようになった。紀元前141年にはゲゼルとエルサレムの要塞アクラを攻略し、シリアの拠点は一掃された。シモンが元老院へ使節を送ったので、この独立政府はローマとスパルタにも承認され、使節ヌメニオスはローマからの書簡を持ち帰った。
紀元前140年、エルサレムで布告が出され、青銅板に決議が記された。大集会が、信頼できる預言者が現れるまでシモンを指導者かつ大祭司とし、その地位を子孫にも世襲させると認めたのである。こうしてハスモン朝が成立した。マカバイ記1は祭司と民衆の全面的な賛同があったと述べるが、これはハスモン朝側の意図を含む文書であることに留意すべきだとされる。シモンは王権を主張せず、「民族指導者」の称号を用いた。紀元前138年にアンティオコス7世がシリア王に即位すると、使者を送って要塞の返還を求めたが、シモンは拒んだ。シリア軍はヤムニア周辺を荒らしたものの、シモンの命を受けた息子のユダとヨハネ・ヒルカノスが反撃して勝った。
紀元前135年、シモンは二人の息子マタティアとユダとともに、義理の息子でエリコ総督のプトレマイオスの宴会に出席して暗殺された。プトレマイオスは支配を狙う野心家で、ゲゼルにいたヨハネの暗殺も企てたが失敗し、権力は三男のヨハネ・ヒルカノス1世が継いだ。マカバイ記1の記述は、シモンの暗殺で終わっている。シモンは、マカバイ兄弟のなかで最後まで戦い続けて死んだ人物とされる。シモンの名は、その後約3世紀にわたり男性名として最も人気を保ったという。
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