HISTORICAL PERSON · 紀元前4年没

ヘロデ大王

ハスモン朝の王座が空位となった際にローマ元老院にユダヤ王と認められ、ヘロデ朝を創設した。ローマと協調してエルサレム神殿の大改築など多くの建築物を残したが、猜疑心が強く身内も多数殺害した。

生涯
紀元前4年没
死亡地
パレスチナ国(ウェストバンク / エリコ)
出生地
エドム
出典
世界地図
パレスチナ国(ウェストバンク)

伝記

ヘロデは、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にかけてユダヤ王国を統治した王である。紀元前73年頃に生まれ、紀元前4年に没した。在位は紀元前37年から紀元前4年までで、息子たちと区別してヘロデ大王とも呼ばれる。マカバイ戦争を制してユダヤを独立させたマタティアの子孫であるハスモン朝が身内の争いで王座を空位にした際、ローマ元老院により、王族ではないがユダヤの王と認められてヘロデ朝を創設し、ローマとの協調関係を築いた。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した一方、猜疑心が強く、身内を含む多くの人間を殺害したとされる。

父アンティパトロスは、イドマヤ、すなわちエドム出身の武将で、ハスモン朝末期のヒルカノス2世の側近であった。ローマ軍の軍事行動を積極的に援助してカエサルの信用を得、紀元前47年の夏ごろ、ユダヤの代官に任じられた。ヒルカノスが温和だが愚鈍で非行動的だったため、アンティパトロスは政治を息子たちに任せ、次男のヘロデはガリラヤ地方を任された。若いヘロデは気性が強く活発で、シリア国境周辺の盗賊団を壊滅させて評価を高めたが、裁判にかけずに殺したことを理由に自らが裁判にかけられた。死刑判決が出そうな空気を悟ると、ヒルカノスの勧めでダマスコに亡命し、のちにシリア総督の地位を買って軍を率いてエルサレムに来て、力ずくで判決を覆したという。紀元前43年に父がマリコスというユダヤ人に毒殺されると、機会をうかがって、カッシウスの許可のもとマリコスを殺させた。

紀元前42年のフィリッピの戦いでカッシウスがアントニウスとオクタウィアヌスに敗れた後、ヘロデを訴えるユダヤ人の指導者たちがいたが、ヘロデはアントニウスを買収して発言の機会を与えず、兄とともに四分領太守に任命された。その後、アンティゴノスがパルティアの援助を受けて叛旗を翻し、ヒルカノスと兄はパルティア人に捕らえられた。警戒して同行しなかったヘロデは、婚約者マリアムネや親族らを連れて脱出し、家族をマサダに逃がしたのち、アレクサンドリアを経てローマに赴いた。以前から親しかったアントニウスに窮状を訴え、オクタウィアヌスの同意も得たことで、元老院の公式議会で「ヘロデはユダヤの王である」と宣言された。紀元前37年の春からエルサレムを包囲し、ローマの援軍も得てこれを陥落させ、アンティゴノスは捕らえられてアントニウスに処刑された。こうしてハスモン一族がユダヤの王であった時代は終わった。

ヘロデの治世は、紀元前37年から25年の権威の強化時代、紀元前25年から13年の全盛期、紀元前13年から4年の晩年の家庭の悲惨な時期の三つに分けられる。最初の時期には、ユダヤの民衆、貴族、旧王家のハスモン家、そして国外のクレオパトラと争った。貴族層にはアンティゴノス派の残党のうち指導者と見た45名を粛清して財産を没収した。ヒルカノスを敬意をもって扱い、大祭司の位にアリストブロスを就けたが、彼が紀元前35年の秋ごろ宮殿のプールで溺死し、ハスモン家との関係は破局的になった。最終的にヘロデは、ハスモン朝の血を引くものをすべて抹殺することになった。アクティウムの海戦でアントニウスが敗れたと知ると、ヘロデは彼を見限り、ロドス島でオクタウィアヌスに面会して、これまでの友好と戦わなかった理由を堂々と述べ、要求の多くを受け入れられた。

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