HISTORICAL PERSON · 紀元前132年没

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ

紀元前138年の執政官だった共和政ローマの政治家。保守派に属し、ティベリウス・グラックスの農地法案に反対する中心人物だった。殺害に関わったとも考えられ、民衆の怒りを買い国外に去ってペルガモンで没した。

生涯
紀元前132年没
死亡地
トルコ共和国(イズミル県 / ペルガモン)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
トルコ共和国(イズミル県)

伝記

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオは、共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前183年頃に生まれ、紀元前132年に没した。一般にはスキピオ・ナシカの名で知られる。名門スキピオ家の出で、母はコルネリアで、その父が大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)にあたる。父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムである。護民官ティベリウス・グラックスとガイウス・グラックスの兄弟とは従兄弟の関係にあった。「ナシカ」は「尖った鼻」を意味し、この家名を受けた三人目の人物だった。

若い頃のことはほとんど分かっていない。父コルクルムは第三次ポエニ戦争に反対して元老院で意見を述べていたとされ、この家系はスキピオ一族の他の家系から距離をおいていたらしい。歴史家アッピアノスが記す、パンノニア人に大敗した「コルネリウス」は、当時マケドニアの法務官だったナシカ・セラピオだと考えられている。ただしその敵がイリュリアの住民だった可能性も論じられている。同じ年に、亡くなった父の跡を継いで最高神祇官となった。

紀元前138年には、同僚のデキムス・ユニウス・ブルトゥス・ガッラエクスとともに執政官に選ばれた。これは海外での反乱や敗北が続くなかで、強い人物を選ぼうとするローマ人の方針の一環だったという。執政官になった彼は自分の敗北の雪辱を期して、重い徴兵を行おうとした。これに不満が高まり、最大の政敵である護民官ガイウス・クリアティウスの下で反対運動が起き、護民官の特権を否定したという罪で彼は拘束された。拘束中に「セラピオ」の名を、鼻の形をあざける侮辱として与えられたとされる。

彼の名をもっとも有名にしたのは、ティベリウス・グラックスとの対立である。ポエニ戦争後のローマでは社会が疲弊し、奴隷と富の大量流入や農業の変化が深刻な国内危機を生んでいた。グラックスは土地法などの改革を進めようとしたが、ナシカは古来の元老院の権威を保とうとする保守派の中心で、グラックスに最も強く反対した。大きな土地を所有し公有地の返還を強いられることを嫌ったともいわれる。元老院議員や騎士身分のオプティマテスは、最高神祇官のナシカと従兄弟のスキピオ・アエミリアヌスの側に立ち、グラックスらポプラレスに対抗した。

紀元前133年、グラックスは護民官の再選をめざして集会に現れたが、選ばれなかった。身の危険を感じた彼は味方に棍棒を持たせた。元老院でナシカは執政官に、国家を救うためその僭主を倒すよう求めた。執政官プブリウス・ムキウス・スカエウォラは、裁判なしに市民を殺さないと答えた。するとナシカは、最高官が国を裏切るなら法に従う者は自分に続けと言い、トガで頭を覆って、同調する元老院議員たちとカピトリウムへ向かった。グラックスは逃げようとして倒れ、棍棒で打ち殺された。この騒ぎでおよそ三百人が棒や石で殺され、剣による死者は出なかった。その後の追及では、クマエのブロッシウスが尋問され、グラックスが神殿に火を放てと命じたらそれに従うかと問われた。ブロッシウスは、ティベリウスがそう命じることはなかったと答えたが、他の者に同じ問いをされると、ティベリウスほどの人物の命令なら従うのが正しいと述べたという。やがて暴動を見逃した責任から民衆の怒りを買った彼は、アシア属州への視察という名目で国を離れ、その際「ティベリウスは王になろうとしたのだ」と言ったと伝えられる。のちに自発的に国外へ退去し、まもなくペルガモンで没した。その後、最高神祇官の職はムキアヌスが継いだ。

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