伝記
スミュルナのビオンは、古代ギリシアの牧歌詩人である。紀元前2世紀の終わりか前1世紀の初めごろに活動したと考えられている。ビザンツ期の事典『スダ』は、テオクリトス、モスコスと並ぶ三人の正典的な牧歌詩人の一人として彼の名を挙げている。アドニスを悼む長詩一編と、十七の短い断片が今に伝わる。
生涯についてはほとんど分かっていない。『スダ』はビオンをフロッサの出身とするが、この地名はほかに知られず、スミュルナを構成した村の一つだったかもしれないという。古代の記録には彼の生没年も生活の詳細も残っていない。ただ、紀元前2世紀半ばに活動した牧歌詩人モスコスの影響を受けたらしく、前1世紀初めのガダラのメレアグロスには知られていたようである。作者不詳の『ビオンの墓碑銘』は、彼が毒殺されたこと、若くして亡くなったことをうかがわせる。この詩にある「アウソニアの悲しみ」という語から、作者はイタリア人で、ビオンはイタリアへ旅したのではないかという説も出された。しかし他に裏づけはなく、イタリアから故郷スミュルナへ旅する途中で会った可能性もあるとされる。一方、テオクリトスと同時代にシチリアで活動し、モスコスを弟子として、シチリアで毒死したともいわれる。
作品について見ると、『スダ』とパラティナ詞華集の古注は、ビオンを牧歌詩人として挙げる。彼は恋愛を扱った詩も書いたとされる。現存するのは『アドニス哀歌』と十七の短い断片で、最初の十六の断片はストバイオスが、十七番目はテーバイのオリオンが伝えた。すべて六歩格の韻律とドーリス方言で書かれており、これは古代の牧歌に典型的な形式である。『アドニス哀歌』は98行、断片は一行から十八行まで、合計でさらに約100行ほどになる。鳥刺しがエロスを捕まえようとする断片は、おそらく完結した一編である。残りの断片は少なくとも四つの別の詩に由来するらしいが、同じ詩に属すると確実にいえる二つはない。アキレウスとデイダメイアの祝婚歌は写本では作者不詳で伝わるが、ビオンの作とする説もある。ただし強い根拠はない。牧歌集に含まれる他の詩や、紀元後3世紀のパピルスに残る六歩格の断片詩も、ビオンの作とされることがある。
『アドニス哀歌』は二つの中世写本に残り、匿名で、またテオクリトスの作とする伝えとともに伝わった。1530年にヨアヒム・カメラリウスが初めてビオンの作としてから、『ビオンの墓碑銘』の言及や断片との韻律の類似を根拠に、おおむねビオンの作とされてきた。伝統的なギリシアの哀歌の影響を受け、テオクリトスの『牧歌』第15歌のアドニス賛歌に着想を得たのかもしれないが、ジャンルとしては第1歌のダフニス哀歌に近く、これを繰り返し踏まえている。カリマコスの作品からも影響を受けているとされる。
ビオンの作品は紀元後6世紀まで読み継がれた。メレアグロス、オウィディウス、カトゥルス、ノンノスらの詩人がこれに言及し、アキレウス・タティオス、ロンゴス、ヘリオドロスといった小説家も彼に触れている。モスコスの名で伝わる偽作の『ビオンの墓碑銘』も、特に『アドニス哀歌』を踏まえている。弟子のシラクサのモスコスは彼の死に際して牧歌を捧げ、オルフェウスになぞらえたともいわれる。ホラティウスは彼の作を「ビオンの風刺詩と黒い塩」と呼んだ。作品は18世紀末、ジャン=バティスト・ガイユによってフランス語に訳された。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス (紀元前56)
- ルキウス・リキニウス・ルクッルス (紀元前56年没)
同じ地域に関係する人物
- Diphilus of Sinope (紀元前400)
- Dinon (紀元前400)
- カリクラティダス (紀元前405)
- カリノス (紀元前700)
- アフメト・アリ・チェリクテン (1969年没)