伝記
エウメネス3世は、ペルガモン王国(アッタロス朝)の王位僭称者である。もとの名をアリストニコスといい、ペルガモン王エウメネス2世の非嫡出の子とされる。母はエフェソスの女で、竪琴を弾く者の娘だったと伝えられる。先代の王アッタロス3世とは異母の兄弟にあたり、王位をめぐってローマに挑んだ人物として知られる。
紀元前133年、アッタロス3世が死去し、王国を共和政ローマに遺贈した。ローマが主張を行うのは遅れた。アリストニコスはこの隙に、自分はエウメネス2世の子だとして王位を主張し、エウメネス3世と名乗った。王国がローマに渡されることを拒み、ペルガモン王国の解体に反対したのである。この闘いは王位を狙う一人の野心にとどまらず、王朝を守ってローマに抗う「民族的」な運動に近いものだったとも見られている。紀元前133年から自らの名で貨幣を鋳造しており、その名を刻んだ銀貨が残っている。アッタロス3世の死後、アジアを父祖の遺産のように手に入れようとし、初めのうちは何度かの戦いに勝ったともいう。
彼ははじめ、自由を約束してギリシア沿岸の都市の支援を得ようとしたが、うまくいかなかった。そこで国内の奴隷や農奴に自由を約束して味方につけた。ペルガモン王家の艦隊を奪うなど、当初は一定の成功を収め、内陸の軍事植民地や都市を沿岸の諸都市に対抗させることができたという。しかしクメの沖でエフェソス人と海戦を行って敗れ、レウカイを追われて内陸へ退いた。そこで貧しい者や奴隷を集め、彼らを「ヘリオポリス人」と呼んだ。彼はまずテュアティラを不意に襲い、アポッロニスを奪い、さらにいくつもの砦を攻めたという。彼は、ティベリウス・グラックスを支えたストア派の哲学者とともに、すべての人が自由な「太陽の都」ヘリオポリスを見いだすと宣言した。ただ、彼がどれほど社会変革を目指した人物だったのか、王位を争う者にすぎなかったのかは、はっきりしない。
やがて諸都市の軍に、ビテュニア王ニコメデスやカッパドキアの王たち、さらにポントスのミトラダテスやパフラゴニアのピュライメネスまでが加わってローマを助けた。ローマからも使節に続いて軍が到着した。紀元前131年、執政官プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスが軍を率いて遠征したが、エウメネス3世はこれを討ち取った。クラッススはレウカイの近くで待ち伏せに遭って倒れたともいわれる。その首は彼のもとに届けられ、遺体はスミュルナに葬られたとされる。しかし反乱の広がりとヘリオポリス人による暴力は、地主たちとローマとの結びつきをむしろ強めたと見られている。
クラッススの後任として来た執政官マルクス・ペルペルナは、アジアへ急行し、紀元前129年、会戦で彼を破った。彼は逃げ込んだ都市に閉じ込められ、飢えのために降伏した。戦いの場はカイコス河畔のストラトニケイアだったともされる。捕らえられたエウメネス3世はローマ市内を引き回され、元老院の命によって牢獄で絞殺されたという。ペルペルナは彼を生きたまま捕らえ、護送してローマへ送った。そのペルペルナも帰国の途中でペルガモンに没したため、彼に対する凱旋式は行われなかった。のちにマニウス・アクィリウスが十人の使節とともに新しい属州の統治の形を整えた。この属州の組織は、後世にも続いたとされる。ローマやギリシアの記録は、彼を僭称者であり冒険家として描いている。
同じ年に亡くなった人物
- メナンドロス1世 (紀元前 129年)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス (紀元前 129年)
- セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官) (紀元前 129年)
- アンティオコス7世シデテス (紀元前129年没)
- カルネアデス (紀元前129年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルル3世 (ブルボン公) (1527年没)
- クレメンス11世 (ローマ教皇) (1721年没)
- スーゾ・チェッキ・ダミーコ (2010年没)
- シクストゥス2世 (ローマ教皇) (258年没)
- フランコ・ゼフィレッリ (2019年没)