HISTORICAL PERSON · 1204年没

アリエノール・ダキテーヌ

アキテーヌ女公で、フランス王ルイ7世、次いでイングランド王ヘンリー2世の妃。吟遊詩人を庇護して宮廷文化を広め、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれた。

生涯
1204年没
死亡地
フランス共和国(ヴィエンヌ県 / ポワチエ)
出生地
フランス共和国(ポワチエ)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴィエンヌ県)

伝記

アリエノール・ダキテーヌは、中世フランス王国の貴族で、アキテーヌ女公(在位1137年〜1204年)である。1122年ごろに生まれ、1204年4月1日に没した。はじめフランス王ルイ7世の王妃、のちにイングランド王ヘンリー2世の王妃となり、若ヘンリー王、リチャード1世、ジョンの母でもある。子孫が各地の君主や妃となったことから「ヨーロッパの祖母」と呼ばれ、中世盛期の西欧で最も裕福で地位の高い女性の一人であった。吟遊詩人ベルナール・ド・ヴァンタドゥールらを庇護し、洗練された宮廷文化をフランスとイングランドに広めたことでも知られる。

アキテーヌ公ギヨーム10世の第一子の長女として生まれ、母は副伯の娘アエノール・ド・シャテルローとされる。祖父のギヨーム9世は、宮廷詩人トルバドゥールとして知られる一方、多情で奔放な人物で、教会と衝突して二度破門されたと記録される。当時のアキテーヌ公領はガスコーニュ公領、ポワティエ伯領などを含み、フランス全土の3分の1近くを支配し、宮廷愛やトルバドゥールで知られる南仏文化の中心であった。アリエノールはその雰囲気の中で、音楽、文学、ラテン語と、当時の女性としては高い教育を受けて育った。父に伴われて領内を回り、政治にも関心を持ち、父から溺愛されたという。1130年に母と弟ギヨームが早世したため、8歳で大領地の女相続人となった。容姿は「世界の薔薇」と讃えられた。

1137年4月8日、父はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の途上で38歳で死去した。遺言によりアリエノールの後見はフランス王ルイ6世に託され、王太子ルイ、後のルイ7世との結婚が決まった。7月25日にボルドーで結婚式が行われ、8月にルイ6世が危篤になると、夫妻はパリへ急いで戴冠式を挙げ、15歳で王妃となった。しかし、陽気な南仏育ちのアリエノールと、修道院で育った生真面目で信仰心の篤いルイ7世は性格が合わなかった。後に離婚した際、アリエノールは「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言ったといわれる。夫婦の間には王女マリーとアリックスが生まれたが、男子には恵まれなかった。パリの宮廷では姑のアデル王太后と対立し、妹ペトロニーユの結婚をめぐる騒動では、ルイ7世が教会や諸侯と争う一因となったとされ、1143年の戦いでは避難していた市民1000人以上が焼死する惨事も起きた。

1147年の第2回十字軍には、アキテーヌ諸侯を説得して兵を集め、夫とともに参加した。贖罪を求めた夫と違い、彼女は物見遊山の意図であったと批判され、王妃の荷物や随員が進軍の妨げとなり、フランス軍が小アジアで惨敗する一因となったとも伝えられる。コンスタンティノープルでは華麗な宮廷文化に心を奪われたという。その後、ルイ7世と離婚してヘンリー2世の王妃となり、リチャードら息子たちを産んだ。三男のリチャードはお気に入りの息子であったようで、彼女はその統治者としての教育を授け、1172年にはアキテーヌ公とした。1173年に息子たちが父ヘンリー2世に反抗すると、彼女はそれを煽ったとされ、フランス宮廷へ逃れる途中で捕らえられ、夫のもとへ引き渡された。以後15年以上にわたり、イングランドの城々で厳重な監視下に幽閉された。

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