伝記
アレクシオス4世アンゲロスは、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第3代皇帝(在位1203年〜1204年)である。1182年ごろに生まれ、1204年2月8日にコンスタンティノープルで没した。初代皇帝イサキオス2世アンゲロスと最初の妃エイレーネーの子で、父の治世(1185年〜1195年)には、正式に帝位を共有してはいなかったが、後継者と見なされていた。その治世は、第4回十字軍の矛先がコンスタンティノープルへ向かったことで特徴づけられる。
1195年、父は貴族の陰謀を率いた弟のアレクシオス3世によって廃位され、目をつぶされて、息子とともに投獄された。その後の脱出の経緯については伝えが分かれる。1195年の廃位の後に帝国を脱出し、義兄にあたるシュヴァーベン公フィリップのもとへ逃れたともいわれ、1201年の後半に叔父に連れられてバルカンの遠征に出た際、ピサの商船で逃げ出し、アンコーナからイタリアに渡ったともいわれる。いずれにせよ、義兄のシュヴァーベン公フィリップに援助を求めた点は共通する。フィリップ自身はすぐには動けなかったが、その近臣で第4回十字軍の指導者に選ばれたモンフェッラート侯ボニファチオが好意的に応じたという。ヴェローナでは十字軍の指導者に助けを求めたが成果はなく、教皇には、ローマ教会への服従と東西教会の統一を約束して支持を求めたものの、教皇は当時の皇帝と良好な関係にあり、敵意を持ち続けた。
1202年、十字軍は兵が予定より少なく、ヴェネツィアに銀3万4千マルクの負債が残っていた。ヴェネツィア総督ダンドロは、支払いの猶予と引き換えに、ハンガリー王の保護下にあったダルマチアの都市ザラの奪回への協力を求め、ザラは十字軍とヴェネツィア人によって占領された。その後、アレクシオスの使者が到着し、帝位の奪回への支援を正式に求めた。見返りとして、銀20万マルク、遠征中の食糧、1万人の兵の提供、そのうち500人の騎士の聖地への残留、東方教会の教皇への服従を約束した。西欧の側にも、ビザンツを攻める発想は以前からあった。第3回十字軍では、フリードリヒ1世が東ローマ帝国の領内で妨害を受け、息子への手紙で、ダーダネルス海峡への艦隊の派遣と、教皇にコンスタンティノープルへの十字軍を説かせることを求めたという。ヴェネツィアも、1082年に皇帝から通行税を免除されて以来の商業上の優位を取り戻す利点があった。その後の一世紀にヴェネツィアなどイタリア商人の交易は大きく伸び、主要都市にラテン人の街区が生まれて、外国人への反感も生じていた。
1203年7月、十字軍は首都に攻め込んで叔父を追放し、幽閉されていた父を助け出して、アレクシオス4世は共同皇帝として即位した。しかし遠征資金を負担するために国民や貴族に重税を課したことで、強い反感を招いた。1204年、民衆や貴族の支持を得たアレクシオス3世の娘婿アレクシオス5世ドゥーカスが反乱を起こし、アレクシオス4世は父とともに殺害された。二十代前半の若さであった。彼の即位は、十字軍への負債と約束の重さのなかで始まり、その約束を果たせないまま、帝国内の反感によって短い治世を終えた。
同じ年に亡くなった人物
- クリン・バン (1204年没)
- ベルトルト (メラーン公) (1204年没)
- Michael Glycas (1204年没)
- ニコラオス・カナボス (1204年没)
- アリエノール・ダキテーヌ (1204年没)
同じ地域に関係する人物
- ディミトリオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1991年没)
- コンスタンティノス10世ドゥーカス (1067年没)
- ジャマールッディーン・アフガーニー (1897年没)
- ダヴィド (トレビゾンド皇帝) (1463年没)
- アダム・ミツキェヴィチ (1855年没)