伝記
ジャムカは、1162年ごろに生まれ、1205年に没した、モンゴル帝国以前のモンゴル部の首長であり武将である。グル・カンとも称した。モンゴル帝国を創設したチンギス・カン(テムジン)のライバルであったが、敗れた。ジャダラン氏(ジャジラト氏)の出身で、ジャダラン氏はモンゴル部に属するとされるが、モンゴル部のカンを出したボルジギン氏とは、伝説上の血筋でもきわめて遠い。
『元朝秘史』によれば、ジャムカは幼いころ、のちにチンギス・カンとなるテムジンと遊んだ友人で、盟友(アンダ)の誓いを結んだ。しかしその後、高原北部の有力部族メルキトが勢力を強めて、モンゴル部を討ち、ジャムカは長く抑留されたが、解放されるとモンゴル部に帰り、その有力者となった。テムジンがモンゴル部の有力な指導者のひとりとして台頭してくると、再び盟友の誓いを確かめて、その同盟者となった。あるとき、ジャムカの一族の者が、テムジンの配下の遊牧民の家畜を密かに奪おうとして、家畜を管理するテムジンの隷属民に射殺される事件が起こった。この事件で二人の関係は冷え込み、テムジンはジャムカの牧地から離れた。さらに、テムジンの属するキヤト氏族の首長たちが、テムジンをカンに推戴したので、これを妬んだジャムカとテムジンの決裂は決定的になり、ジャムカは、ボルジギン氏の直系であるキヤト氏と同族の、有力氏族のタイチウト氏の側に走った。
ジャムカは、タイチウト氏族と、マングトなどの同盟氏族を動員し、キヤト氏族とその同盟氏族を集めたテムジンと戦った。これが十三翼の戦いである。この戦いで、ジャムカは捕虜としたテムジン側の将兵70人を釜茹での刑に処した。この刑ののち、ジャムカとタイチウト氏に不満を持ち失望した同盟氏族の首長たちは、続々とテムジンの陣営に投じた。ジャムカの勢力はしだいに力を失い、一方のテムジンは、オン・カンと同盟して、急速に勢力を広げた。1200年には、メルキトと同盟したタイチウトがテムジンとオン・カンの連合軍に敗れた。1201年、テムジンの勢力拡大を恐れたモンゴル東方の諸氏族は、タタルと同盟を結び、ジャムカを指導者に推戴した。ジャムカはカンに即位し、グル・カン(「強大なるカン」の意)と称した。しかし同盟に加わったコンギラト部の首長のひとり、デイ・セチェンは、テムジンの妻ボルテの実父だったため、この同盟の結成をテムジンに密報し、テムジンは同年のうちにジャムカを破って、高原東方を平定した。
逃れたジャムカは、オン・カンの子でテムジンをこころよく思わないイルカ・セングンと連絡し、オン・カンとテムジンの離間を図った。1202年、セングンとともにケレイトの陣営でテムジンを暗殺する計画をめぐらせたが、察知されて失敗した。1203年には、テムジンがオン・カンと戦って、ケレイトを滅ぼした。ジャムカは西方のナイマンに逃れ、ナイマンのタヤン・カンを、テムジンとの決戦に導いたが、タヤン・カンは大敗して戦死し、ジャムカはメルキトのもとへ逃れた。テムジンはジャムカを追撃して、メルキトを破り、ジャムカを捕らえた。『元朝秘史』によれば、ジャムカを捕らえて引き渡したのは、ともに逃亡していた5人の部下で、テムジンは、主君を裏切った不忠に激怒し、彼らを一族もろとも処刑するよう命じたという。のちに、テムジンは旧交を思って助命を持ちかけたが、ジャムカは、テムジンの軍門に下ることを拒否し、「血を流さずに殺してくれ、死後、わが魂はお前の子孫たちを末永く護るだろう」と告げた。テムジンはこれを容れ、血を流さない方法で処刑して、手厚く葬ったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- オットー2世 (ブランデンブルク辺境伯) (1205年)
- エンリコ・ダンドロ (1205年没)
- イザベル1世 (エルサレム女王) (1205年没)
- キリジ・アルスラーン3世 (1205年)
- ルイ1世 (ブロワ伯) (1205年没)
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