伝記
エンリコ・ダンドロは、1107年ごろに生まれたとされ、1205年に没した、ヴェネツィア共和国の第41代元首(ドージェ)である。在任は1192年から1205年までで、第4回十字軍を率いて、1204年に東ローマ帝国を滅ぼし、ラテン帝国の成立に関わった中心人物として知られる。ヴェネツィアの著名なダンドロ家に、法学者で元首の宮廷の一員だったヴィターレの子として生まれ、アンドレアとジョヴァンニという兄弟がいた。父が1174年に没するまで、エンリコに関する情報はあまり見つかっていない。父が90代まで生きたため、息子たちは父の死まで独立できなかったからである。
最初の重要な政治上の役割は、1171年から1172年のヴェネツィアと東ローマの危機であった。1171年3月、コンスタンティノープルでヴェネツィア人を排斥する動きが起こり、東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスは、国内の何千人ものヴェネツィア人の投獄と財産の没収を命じた。元首ヴィターレ2世ミキエルは、怒る群衆とともに報復の部隊を召集せざるを得ず、ダンドロもこれに加わったが、遠征は疫病もあって1172年に崩壊し、ミキエルは、敗北に怒った群衆に殺された。両国は10年にわたって国交を断った。東ローマの新しい皇帝アンドロニコス1世のときに、国交が回復したが、この外交交渉を担ったのがダンドロである。1183年と1184年に、ダンドロは、兄弟とともにコンスタンティノープルへ赴き、ヴェネツィアの賠償金の交渉に携わった。皇帝は、投獄中のヴェネツィア人を解放し、賠償金を支払うことに同意した。
1192年、第40代元首オリオ・マストロピエロが退位すると、ダンドロは、40人からなる評議会の選挙を経て、第41代元首になった。すでに高齢で視力を失っていたが、大きな野心をもち、精力的に活動した。1192年8月には、ヴェネツィアに居住する全外国人の追放の法案を出した。翌1193年に、敵対するザラの攻略を命じ、前の元首の時代に失っていた島々の支配を回復した。1194年には通貨制度を改革し、彼の肖像が入ったほぼ純銀のグロッソ貨は、地中海商業の主要な通貨になった。
1202年、エジプトへの侵攻を目的に第4回十字軍が結成されたが、軍資金が乏しかった。輸送と軍備を請け負ったダンドロは、十字軍が合意した金額を支払えないと知り、請求を放棄して資金援助とする代わりに、ヴェネツィアと敵対するザラを攻撃するよう、十字軍に持ちかけ、その提案が通った。自ら十字軍とともにザラの攻略に加わり、11月24日にザラは攻め落とされた。教皇インノケンティウス3世は激怒し、ザラの略奪を行ったヴェネツィアの十字軍を破門したが、のちの弁明で破門は解けた。ザラ攻略の直後、十字軍は東ローマ帝国の皇位継承問題に介入した。ダンドロは、イサキオス2世の息子アレクシオス4世アンゲロスを帝位に据える十字軍指導者の計画に同意した。1204年4月、コンスタンティノープルを攻めて、皇帝アレクシオス3世を追放し、イサキオス父子を皇帝に据えた。しかし、父子は報奨金の約束を果たす前に、反乱で殺された。新帝アレクシオス5世も報奨金の支払いを拒んだため、ダンドロは十字軍とともに再び都を攻め、東ローマ帝国を滅ぼして、ラテン帝国を成立させた。初代皇帝にダンドロを推す声もあったが、彼は帝位を断り、フランドル伯ボードゥアンを推挙した。ヴェネツィアは、コンスタンティノープルの約半分、イオニア海沿岸、クレタ島などを手に入れた。ダンドロは、1205年にコンスタンティノープルで没し、ハギア・ソフィアに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャンヌ1世 (ブルゴーニュ女伯) (1205年没)
- ジャムカ (1205年没)
- オットー2世 (ブランデンブルク辺境伯) (1205年)
- ルイ1世 (ブロワ伯) (1205年没)
- ヒューバート・ウォルター (1205年没)
同じ地域に関係する人物
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- アフメト・ジェヴデト・パシャ (1895年没)
- フェオファン・グレク (1410年没)
- Guzelce Ali Pasha (1621年没)
- メティン・オクタイ (1991年没)