伝記
イザベル1世は、1171年11月から1172年9月の間に生まれ、1205年4月5日に没した、エルサレム女王である。エルサレム王アモーリー1世と、その二度目の妻でビザンツ生まれのマリア・コムネナとの間の娘で、異母兄姉に、ボードゥアン4世とシビーユがいる。1174年7月11日に父アモーリー1世が赤痢で死ぬと、貴族と聖職者が集まって継承を話し合い、国王のただ一人の息子であるボードゥアン4世を後継者とすることに決めた。母マリアは、持参財産として受けたナーブルスの町に、イザベルとともに隠退した。のちに母は、1177年の末にバリアン・ディブランと再婚した。
ボードゥアン4世はハンセン病で、後継者ができないことがわかっていたため、姉のシビーユの子ボードゥアン5世が後継者となった。イザベルは1183年に、アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンの義理の息子にあたるオンフロワ4世・ド・トロンと結婚した。このとき、サラディンは、結婚式が行われているカラク城を襲った。1186年に、ボードゥアン4世の死後に王位についたボードゥアン5世が、即位1年で死ぬと、姉のシビーユとその夫ギー・ド・リュジニャンが、王位についた。ギーの反対者は、イザベルを対立女王に立てようとしたが、彼女の夫オンフロワは、シビーユとギーを君主と認めた。1190年秋、シビーユとギーの娘2人が相次いで死に、さらにシビーユも死ぬと、イザベルが王位継承者となった。母マリアと継父バリアンは、イザベルにオンフロワを離れさせ、モンフェラート侯コンラート1世と結婚させて、ギーに対抗して王位を主張させた。結婚の無効を認めさせたうえ、1190年11月に、イザベルはコンラートと結婚した。十字軍に参加していたイングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世は、仲裁に入り、ギーは生涯王位を保ち、その後をイザベルとコンラートが継ぐと宣言した。
ギーは1192年にエルサレム王位を失い、リチャード1世によってキプロス王とされた。コンラートは、正式に王位に就く直前に、暗殺教団によってティールで殺された。このときイザベルは妊娠していたが、リチャード1世の提案で、リチャード1世の甥にあたるシャンパーニュ伯アンリ2世と、急いで結婚した。結婚後、のちにエルサレム女王となるマリアを産んだ。1197年9月にアンリがアッコンで窓から落ちて死ぬと、イザベルは、ギーの兄で、1194年にキプロス王となっていたエメリー・ド・リュジニャンと、4度目の結婚をした。この結婚で、エメリーはエルサレム王を兼ねた。イザベルは、1198年に戴冠して、女王となった。政治的な野心はほとんどなく、統治を3人の夫に任せ、夫たちは勅許状に彼女の名も加えた。エメリーとの共同統治の時代に、女王の権利と義務を定めた法律書『王の書』がまとめられた。
1205年、エメリーが死に、イザベル自身も数か月後に亡くなった。女王の位は、生き残った5人の娘のうちの最年長の、モンフェラートのマリアが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヒューバート・ウォルター (1205年没)
- エンリコ・ダンドロ (1205年没)
- ボードゥアン1世 (ラテン皇帝) (1205年没)
- ラースロー3世 (ハンガリー王) (1205年没)
- ルイ1世 (ブロワ伯) (1205年没)
同じ地域に関係する人物
- Shams al-Din al-Ansari al-Dimashqi (1327年没)
- アリー・ベイ (1773年没)
- イツハク・ルリア (1572年没)
- モーセ・コルドベロ (1570年没)
- ヘラクレイオス・オブ・エルサレム (1191年没)