HISTORICAL PERSON · 1205年没

ヒューバート・ウォルター

カンタベリー大司教と大法官を兼ねてリチャード1世に仕え、皇帝に捕らえられた王の身代金集めに奔走し、後の治安判事の前身となるコロナー制を導入した。

生涯
1205年没
死亡地
イギリス連邦(ケント)
出生地
イギリス連邦(West Dereham)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケント)

伝記

ヒューバート・ウォルターは、1205年7月13日に没した、イングランドの政治家であり聖職者である。リチャード1世(獅子心王)に仕え、カンタベリー大司教と大法官を兼ね、聖俗の最高の役職を合わせて、宰相の任務を果たした。6人兄弟のひとりで、一家はノーフォークのウェスト・ディアラムの出である。叔父のグランヴィル(ヘンリー2世の最高司法官)は、兄テオバルドとウォルター自身の出世を助けた。ウォルターが叔父の家の人として最初に現れるのは、1178年とされる(1180年まで下る可能性もある)文書である。ラテン語の力は乏しく、本人も学者とは思っていなかったらしい。

1184年から1185年には、財務府の男爵の地位にあり、国王は彼を、交渉役、裁判官、書記官として使った。1186年7月ごろ、ヘンリー2世の命令で、ヨーク首席司祭となった。ヨーク大司教の座は、1181年から1189年まで空席で、教区の管理は、首席司祭の彼の仕事だった。同じ年の9月に、ヨーク大司教の候補になったが、選ばれなかった。1188年には、ウェスト・ディアラムに、買い取った土地で、プレモントレ会の修道院を建てた。1189年に、リチャードが即位して間もなく、ソールズベリー司教に選ばれた。叔父グランヴィルは、新王リチャードの不興を買って政界を引退していたが、この年にリチャードが第3回十字軍を起こすと、名誉回復を願う叔父とともに、ウォルターも従軍を志願した。十字軍参加者の保護によく努めた彼は、いつしかリチャードの信頼も得た。

1193年、リチャードがオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の捕虜になると、ウォルターは、王母アリエノールとともに身代金集めに奔走して、釈放を実現させた。この功績により、リチャードは教皇に要請して、彼をカンタベリー大司教にした。翌1194年には、大法官を兼任した。1195年には教皇使節にも任じられ、リチャードと教皇との連絡と調整にもあたった。帰国したリチャードは、わずか2か月のイングランド滞在ののち、フランスへ渡り、フランス王フィリップ2世との戦いで各地を転戦した。留守を任されたウォルターは、リチャードが戦争を続けるのに必要な金を集める責任を負い、新税制の導入や土地調査によって財政収入の増加を目指す一方、法制の充実に努めた。各ハンドレッドから4人の騎士を選んで司法を担わせる、のちの治安判事の前身にあたる「コロナー制」を導入し、地方の有力者を、地域の司法と行政に参加させた。1198年に新しく教皇となったインノケンティウス3世との対立から、いったん大法官を辞任に追い込まれた。

1199年、リチャード1世が戦死した。後継の候補としては甥のアーサーがいたが、アーサーの後見人には、リチャードと領土をめぐって敵対していたフィリップ2世がついていた。リチャードは死に際して、弟のジョンを次のイングランド王に指名した。イングランドの独立が侵されることを恐れたウォルターも、前王の遺言どおり、ジョンの即位を確実なものにした。新王は、再びウォルターを大法官に任じた。大法官に復帰した彼は、国王の命令を文書化して大法官が保管するという、それまでイングランドになかった規則を定め、勅許状記録の保管を始めた。1205年にウォルターが死んだあと、教皇インノケンティウス3世が任じた後任の大司教の就任を、ジョンが拒否したことから破門の騒動になった。さらに、フランス王フィリップ2世との戦いの敗北も加わって、イングランドは政治的混乱に陥った。

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