伝記
ロマン・ムスティスラーヴィチは、リューリク朝の公で、ハーリチ・ヴォルィーニ大公国をつくり、ロマノヴィチ家の祖となった人物である。「偉大なるロマン」と呼ばれ、12世紀末から13世紀初めのルーシの公のなかで、最も有力とされた。生まれた年は分かっておらず、1150年ごろとも、1160年より前ともいわれる。父はムスチスラフ2世、母はポーランド大公ボレスワフ3世の娘アグネスで、ロマンは長男であった。ダヌィーロとヴァシリコの父でもある。
1168年4月14日、キエフを占領していた父の命で、ノヴゴロド公として送られた。しかし1170年8月に父が没すると、ノヴゴロドの人々に追い出され、彼らはアンドレイ・ボゴリュブスキーを公に招いた。ロマンはヴォルィーニ公国に移り、ヨトヴィング人を従えて、捕虜に自分の土地の鋤を引かせたという。1183年ごろ、のちのキエフ大公リューリクの娘プレドスラヴァと結婚した。1187年にハーリチ公ヤロスラフ・オスモミスルが没すると、2人の息子の争いでハーリチは乱れた。ロマンは、ハーリチの人々をうながして、公のひとりを追い出させ、自分を公に迎えさせようとしたが、失敗した。1189年に、ハーリチの人々は別の公を毒殺してロマンを招いた。ロマンは弟のフセヴォロドに領地をあずけて向かったが、ハンガリー王ベーラ3世が攻め、自分の息子を公とした。ロマンは逃れてヴォルィーニへ戻ろうとしたが、フセヴォロドに入国を拒まれ、ポーランドに向かい、そこでも助けを得られず、舅のリューリクを頼った。リューリクの助けで、ロマンはフセヴォロドを追い出し、領地を取り戻した。1195年には、リューリクがキエフ公国の領地を分けて、ロマンにトルチェスクなどの5つの町を与えたが、ウラジーミル大公フセヴォロド(大巣公)の脅しで手放した。ロマンはこれを舅の策略とみて怒り、チェルニゴフ公ヤロスラフ2世と結んでキエフを取ろうとしたが、リューリクに知られ、ポーランドへ逃れて傷を負い、舅に許しを請うた。
1199年、ポーランドの支援を受けて、ハンガリー王とハーリチの反対派を破り、ようやくハーリチ公となった。同じ年に、ヴォルィーニとハーリチを統合し、ハーリチ・ヴォルィーニ大公国を創った。公の権力にもとづく強い中央政権をめざし、地元の貴族の権利を縮め、自分に異を唱える者を容赦なく処罰したといわれる。一方で、平民のあいだでの人気を高めるため、ルーシ南部を苦しめたクマン人の襲来を止めた。1201年から1202年と、1203年から1204年の遠征で、クマン人の長たちを破って従属させ、多くのルーシ人の捕虜を解放した。
晩年は、舅リューリクと対立し、1201年にキエフを奪ったが、自分は大公にならず、従兄弟のイングヴァルドを大公とした。リューリクは、ロマンがハーリチへ帰ったと聞くと、すぐにキエフを取り返した。1204年に、ロマンはふたたびキエフを奪って大公となり、捕らえたリューリクを、妃と、ロマンのかつての妃である娘プレドスラヴァとともに剃髪させて、修道院に送った。1205年にはポーランドと戦争になり、出征したが、帰りの途中で、ポーランド大公レシェク1世とマゾフシェ公コンラト1世の兄弟の軍に襲われて戦死した。没した日は6月19日とも、10月14日ともいわれる。訃報が届くと、剃髪させられていたリューリクは還俗して、キエフ大公に返り咲いた。ロマンが一時まとめた領土は、彼の死でふたたび分裂し、ルーシの南部は混乱した。
同じ年に亡くなった人物
- エンリコ・ダンドロ (1205年没)
- エメリー・ド・リュジニャン (1205年没)
- ボードゥアン1世 (ラテン皇帝) (1205年没)
- イザベル1世 (エルサレム女王) (1205年没)
- ルイ1世 (ブロワ伯) (1205年没)
同じ地域に関係する人物
- Jozef Sebastian Pelczar (1924年没)
- Markiian Shashkevych (1843年没)
- イグナツィ・ウカシェヴィチ (1882年没)
- アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ (1823年没)
- イザベラ・チャルトリスカ (1835年没)