伝記
ラインバウト・デ・ヴァケイラスは、プロヴァンス語で歌ったトルバドゥール(吟遊詩人)で、後半生は騎士として生きた人物である。1180年から1207年にかけて活動した。その名から、南フランスのオランジュに近いヴァケラスの出身と思われる。伝記には、「プロヴァンスのヴァケイラス城の貧しい騎士の子で、父はペイロールといい、気が狂っているとみなされていた」とある。
まだ若いうちから大道芸人となった。最初の詩作は、ベルトラン・デ・ボーのもとで、1177年にその宮廷で開かれた馬上試合を題材にした、ボー家の栄光をたたえる歌だったという。1181年にベルトランが死に、ボー家は領地を荒らされた。ラインバウトは、1181年か1182年ごろに、二つのシルヴェンテス(風刺詩)をつくった。第一の詩では、ボー家の親戚や同盟者が、領地を奪われるままで助けに来ないことを責めた。第二の詩はアラゴン王に宛てたもので、王がリチャード獅子心王と手を組んで同盟者を助けるという約束を破り、トゥールーズ伯と和睦しようとしていることを責めた。1182年以後は、ベルトランの子で、オランジュ公となっていたギヨーム・デ・ボーに迎えられ、その宮廷で詩作の技術と武芸を身につけた。
1190年以後、プロヴァンスを離れて北イタリアへ向かい、ジェノヴァを経て、マラスピーナ家の宮廷があるトルトーナに寄った。1192年に、モンフェッラート侯ボニファーチョのもとへ行った。特別な客として長く宮廷にとどまり、最初期のトルバドゥールの一人となった。ボニファーチョの親しい友となり、ボニファーチョがアスティやアレッサンドリアの自治都市に対抗して動いたときにも、仕えた。1194年には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世のシチリア遠征に加わり、メッシーナの戦いでは、盾でボニファーチョを守り抜き、騎士としての心意気をたたえられた。1196年には、ギヨーム・ド・フォルカルキエの宮廷に滞在し、そのあとモンフェッラートに戻った。そこで、侯の妹で、エンリコ・デル・カレットの妻であるベアトリーチェを愛し、さまざまな言語で彼女に歌を捧げた。詩では、彼女を「美しい騎士」と呼んだ。
イタリアの宮廷で過ごしたのは1203年までで、その後は第4回十字軍に加わった。1204年にはコンスタンティノープルの陥落に立ち会い、ボニファーチョに従ってテッサロニキへ行った。作品『叙事書簡』は、ラテン帝国初期の政治状況をよく伝えるが、途中で突然終わっている。おそらく、1207年9月4日のブルガリア帝国の攻撃で、ボニファーチョとともに戦死したと考えられている。現存する歌は33曲で、旋律は8つ残る。5つの言語で書かれたデスコルトや、カンソ、テンソ、アルバなど、さまざまな詩の形を使いこなした。『カレンダ・マイア』は、エスタンピーという旋律の中でも最良の一つとされる。1922年には、ニーノ・ベッリーニが、ラインバウトを題材に詩劇をつくった。
同じ年に亡くなった人物
- エーリング・ステインベグ (1207年)
- オットー1世 (ゲルデルン伯) (1207年)
- ヴカン・ネマニッチ (1207年没)
- Fernando Afonso of Portugal (1207年)
- 辛棄疾 (1207年没)
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