伝記
ヴカン・ネマニッチは、1202年から1204年までセルビア大公をつとめた人物である。1165年より前に生まれた。セルビア大公ステファン・ネマニャ(在位1166年-1196年)と、妻アナスタシヤの三人の息子の長男で、弟にステファン・ネマニッチと、のちの聖サヴァとなるラストコがおり、二人の姉妹もいた。父ネマニャは、皇帝マヌエル1世の死(1180年)のあと、東ローマ帝国からの独立を確かなものにし、アドリア海沿岸の伝統的な領地ドゥクリャ、トラヴニヤ、フムを征服した。ネマニャは、跡継ぎとしてヴカンに、1190年ごろ、征服した土地、フヴォスノやトプリツァなどを領地として与え、大公とした。
1195年の、コトルの聖ルカ教会の銘文では、ヴカンは、ドゥクリャ、ダルマチア、トラヴニヤ、トプリツァ、フヴォスノの王とされている。ヴカンは長男だったが、ネマニャは、次男ステファンにセルビアの王座を継がせたがった。ステファンは、東ローマ皇帝アレクシオス3世の娘エウドキア・アンゲリナと結婚していたからである。ヴカンは、この継承の変更に反発し、1195年に自らドゥクリャの王を名のったらしい。王の称号を名のっても、ネマニャの権威は認め続けた。1196年、国の会議でネマニャは、ステファンに譲位し、ヴカンもその弟を新しい支配者と認めなければならなかった。会議のあと、ネマニャは修道士シメオンとなり、アトス山のヒランダル修道院へ退いた。
ネマニャが生きている間、ヴカンはステファンの支配に逆らわなかったが、1200年に父が死ぬと、すぐに大公位を狙う陰謀を始めた。そのとき、第二ブルガリア帝国と戦っていたハンガリー王イムレが、セルビアの助けを求めており、ヴカンはその支援を得た。1202年、ハンガリー軍の助けで、ヴカンはステファンを倒した。ステファンはブルガリアに逃れ、ヴカンが支配者となった。1202年から1203年の銘文では、ヴカンは「大公ヴカン、セルビア全土、ゼタ、沿海の町々、ニシャヴァ地方の支配者」と称されている。ハンガリーの助けの代わりに、ヴカンはハンガリーの臣下となり、教皇が王の称号を与えるなら、民をカトリックに改宗させると約束した。しかしハンガリーの臣下として、ブルガリアとの争いにまもなく巻き込まれた。1203年、ブルガリア人がセルビアを攻め、ニシュをはじめ東部を奪った。その混乱の中で、ヴカンのカトリックへの傾きを利用して、ステファンはセルビアに戻り、1204年にヴカンを倒して、再び大公となった。
三人目の兄弟、大司教サヴァの仲裁で、ステファンはヴカンを許し、領地のゼタ(ドゥクリャ)に戻して、王の称号を持たせた。ヴカンの名が最後に記されたのは1207年で、まもなく死んだと考えられている。1208年には、息子のジョルジェが王として記されているからである。ヴカンは生涯、カトリックだった。妻の名は不明で、セーニ伯家の出で、教皇インノケンティウス3世の親戚だとする説がある。ヴカンが教皇に宛てた手紙で、教皇との縁を誇ったことが根拠だが、どんな関係かを確実に伝える同時代の史料はない。息子には、ジョルジェ、モラチャ修道院を1252年に創ったステファン、ダヴィドヴィツァ修道院を創ったダヴィド(ドミタル)、ムラデンがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯) (1207年没)
- ラインバウト・デ・ヴァケイラス (1207年没)
- 辛棄疾 (1207年没)
- オットー1世 (ゲルデルン伯) (1207年)
- エーリング・ステインベグ (1207年)
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