伝記
クレオパトラ4世は、プトレマイオス朝エジプトの女王で、紀元前116年から紀元前115年まで在位した。のちにシリア王アンティオコス9世キュジケノスの妃となり、紀元前112年に処刑された。父はプトレマイオス8世フュスコン、母はクレオパトラ3世で、紀元前138年から紀元前135年の間に生まれたとされる。兄弟姉妹にプトレマイオス9世ラテュロス、プトレマイオス10世、クレオパトラ・セレネ(クレオパトラ5世)、トリュファイナがいる。この女性をクレオパトラ4世と呼ぶのは、ベヴァンらが用いている呼び方である。
クレオパトラ4世は、兄弟のプトレマイオス9世がまだ王子であった紀元前119年から紀元前118年ごろに、彼と結婚した。紀元前116年に父が没すると、ラテュロスは母クレオパトラ3世とともに共同統治者となり、クレオパトラ4世も王妃の座にあった。のちのプトレマイオス12世アウレテスと、キプロスのプトレマイオスの母である可能性が指摘されるが、名の伝わらない妾が母であった可能性も残る。しかし母クレオパトラ3世は権力を手放そうとせず、自らの影響力を保つため、息子にクレオパトラ4世との離婚を強いた。強制離婚は紀元前115年ごろのこととされる。代わりに王妃とされたのは、母の意向になびきやすい性格だったとされる姉妹のクレオパトラ・セレネである。ある研究者は、クレオパトラ3世が積極的に権力を握り続けたため、娘たちには自分のような正式な共同統治者の地位を認めず、王妃の立場にとどめたのだろうと述べる。
エジプトを去ったクレオパトラ4世はキプロス島に逃れた。裕福な女性であった彼女は、そこで傭兵の軍を集め、シリアのセレウコス朝へ向かったという。当時シリアでは、異母兄弟のアンティオコス8世グリュポスとアンティオコス9世キュジケノスが王位を争っていた。グリュポスはクレオパトラ4世の姉妹トリュファイナの夫で、エジプトの同盟者であった。クレオパトラ4世は自分の軍をキュジケノスに差し出し、その妻となった。母への報復を意図していた可能性もあるとされる。この軍はグリュポスのものであったともいわれ、彼女が説得して自分に従わせたとも伝えられる。
この助けを得て、キュジケノスは一度は権力を握り、アンティオキアを占領した。しかしグリュポスが反撃してキュジケノスを破り、アンティオキアを奪い返した。王宮にいたクレオパトラ4世は捕らえられ、いったん逃れてアルテミスの神殿に身を寄せたとも、ダフネの聖域で殺害されたともいわれる。姉妹トリュファイナは、妹が夫を誘惑することを恐れたともいわれ、夫に処刑を求めた。夫は反対したが、トリュファイナは兵士を呼び、クレオパトラ4世を殺させたという。伝えるところでは、手を切り落とされ、兵士に引きずられ、姉妹とその刺客たちを呪いながら死んだとされる。のちにキュジケノスはトリュファイナを捕らえ、妻の死の報復として殺した。死後のクレオパトラ4世は、神格化されたプトレマイオス家の人々の列に「テア・フィラデルポス」(兄弟を愛する女神)として加えられた。
クレオパトラ4世とキュジケノスの子として、アンティオコス10世エウセベスの名が挙げられる。エウセベスは、紀元前95年にクレオパトラ5世セレネと結婚したとされる。エウセベスが彼女の子だとすれば、母の妹を妻にしたことになる。ただし古代の文献は母の名を記さず、別の女性の子だと考える研究者もいる。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前113年の執政官) (紀元前112年没)
同じ地域に関係する人物
- アデマール・ド・モンテイユ (1098年没)
- ヤーギー・スィヤーン (1098年没)
- アンティオコス11世 (紀元前91)
- スビ・バラカット (1939年没)
- アレクサンドロス2世ザビナス (紀元前123年没)