HISTORICAL PERSON · 1377年没

ギヨーム・ド・マショー

14世紀フランスの作曲家・詩人で、アルス・ノーヴァを代表する。ボヘミア王ヨハンの秘書を務め、のちランスに定住した。『ノートルダム・ミサ曲』は、ミサ通常文の全体を一人で作曲した最初の作品とされる。

生涯
1377年没
死亡地
フランス共和国(マルヌ県 / ランス)
出生地
フランス共和国(ランス)
出典
世界地図
フランス共和国(マルヌ県)

伝記

ギヨーム・ド・マショーは、14世紀フランスの作曲家で詩人である。1300年ごろに生まれ、1377年4月にランスで没した。アルス・ノーヴァを代表する作曲家で、代表作は『ノートルダム・ミサ曲』である。生年は不明で、1300年から1302年の間とする研究者が多いが、1300年から1305年の間ともいわれる。生地も確かではないが、ランスから約39キロ離れたシャンパーニュ地方のマショーとみられる。両親は不明で、身近な家族としては、ランス教区の聖職者であった弟のジャンだけが知られる。古い伝記は貴族の出身としたが、現在は平民とされ、証拠が乏しくどちらとも断言できないという見方もある。聖職者になるための教育を受け、ランスの大聖堂付属学校で学んだと思われる。その後、パリ大学で修士の学位を得たらしいが、分野は分かっていない。

1323年ごろから、ボヘミア王でルクセンブルク伯のヨハンに仕えた。この関係は、のちに宮廷の作曲家また詩人となるうえで決定的であった。王は、寛大で勇敢で大胆な、理想の騎士の手本となる人物であり、その価値観の失われることを、詩人は後に嘆くことになる。ヨハンの秘書となり、王の兵とともに、イタリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニアなど、ヨーロッパ各地に赴いた。この間、王からヴェルダン、アラス、サン・カンタンの、さらに1334年か1337年にはランスのノートルダム大聖堂の参事会員などの名誉職を得た。ただ、司祭には叙階されなかったとされる。1346年、百年戦争初期のクレシーの戦いでヨハンが戦死すると、後のフランス王ジャン2世の妃である、ヨハンの娘ボンヌに仕えた。居をランスに定め、終生ここから動かなかった。

その後、ノルマンディー公シャルル(後のシャルル5世)、ジャン2世の末子でブルゴーニュ公のフィリップ豪胆公、ナバラ王カルロス2世、サヴォイア伯アメデーオ6世、華麗な時祷書で知られるベリー公ジャンなど、多くの後援者に仕えた。1349年のペスト(黒死病)の大流行の後、自作を集大成し、これは数冊の『マショー写本』として残されている。1359年から60年には、ペスト禍が収まって再開した百年戦争で、ランスの包囲戦を経験した。ランスで没し、ノートルダム大聖堂に葬られた。

聖職者であったにもかかわらず、80年近い生涯に残した作品は、典礼のための宗教曲よりも、宮廷風の愛や世相を歌った世俗曲が中心である。最も有名な『ノートルダム・ミサ曲』は、聖母マリアのミサ曲で、ミサ通常文の6章が、一人の作曲家によって作曲された最初の作品とされ、歴史的に重要である。ほかにモテットや、『ダヴィデのホケトゥス』がある。世俗作品では、レー、ヴィルレー、バラード、ロンドーなどの歌曲を多く残し、逆行カノンの3声のロンドー『わが終わりはわが初め』が知られる。詩人としては、老いたマショーを慕って訪れた19歳の女性ペロンヌ・ダルマンティエールとの、プラトニックな恋を歌った『真実の物語』が有名である。抒情詩のほかに14編の長い物語詩を残し、バラードやヴィルレー、ロンドーといった詩の形式を確立して、それらは14世紀から15世紀にかけて主流となった。多声の歌曲の創始者の一人とされ、その作品は欧州に広まって一つの流派を形づくり、ジェフリー・チョーサーやジャン・フロワサール、ウスタシュ・デシャン、クリスティーヌ・ド・ピザンらに影響を与えた。

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