伝記
陸游は、1125年11月13日に生まれ、1210年1月26日に没した、南宋の政治家であり、詩人である。字は務観、号は放翁といい、陸放翁の名で呼ばれる。越州山陰県(現在の浙江省紹興市)の出身で、南宋を代表する詩人として、范成大、尤袤、楊万里とともに南宋四大家の一人に数えられる。現存する詩は約9200首で、中国の大詩人の中で最も多作である。強硬な対金主戦論者で、それを直言したために官界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。祖父は陸佃、父は陸宰で、父が転勤のため家族と淮河を移動している途中、舟の中で生まれた。翌年、金の侵攻を受ける直前に、父が免官になったおかげで、難を逃れて故郷に着いた。父が友人たちと論じる主戦論を聞いて育ち、強い愛国心と対金強硬論をもつに至った。
20歳のとき、唐琬と結婚し、仲睦まじく暮らしたが、陸游の母は、二人が結婚してから不幸が続くことを占い師に相談した。占い師は離婚を勧め、母も、唐琬に子がなかったこともあり、これに従って二人を離婚させた。のちに互いに別の相手と再婚し、沈園という庭園を散歩中に偶然再会した。そこで詠んだ詞「釵頭鳳」は有名である。陸游は、のちのちまで唐琬を追憶する詩を作った。29歳のとき、科挙の第1段階の解試に首席で合格したが、権力者秦檜の孫の秦塤を差し置いたことになり、省試で横やりを入れられて不合格にされた。これによって、出世の道を閉ざされた。陸游は秦塤を恨まず、のちに成都へ赴任する途中、建康に隠棲していた秦塤の邸宅を訪ね、厚くもてなされた。
1158年に秦檜が亡くなると、34歳で福州寧徳県主簿として初めて出仕した。2年後、中央に呼ばれて勅令所刪定官となり、孝宗が即位すると、直々に進士の資格を賜った。金の領内の民衆に決起を促す機密文書の起草などを担当したが、張浚の北伐が失敗して講和派が力を盛り返すと、積極的な発言がたたって地方に出された。隆興府通判となったのち、張浚の強硬論を支持したために免官となり、故郷近くの三山で、4年近く田舎に暮らした。1170年に夔州通判に任じられ、5か月かけて長江をさかのぼった。そのときの紀行文が『入蜀記』である。四川宣撫使の王炎に招かれ、偵察などの任務に精力的に励んだが、中央で再び講和論が強まったため、王炎が呼び戻され、陸游は各地の通判を転々とした。四川制置使の范成大の部下となり、身分の差を越えて親しく詩を交わしたが、そうした態度が放埒にすぎると非難されて辞職し、このとき号を放翁とした。
1178年、孝宗に召還されたが、重く用いられず、地方の提挙常平茶塩公事として建寧に赴任した。翌年、撫州に転任すると、大洪水が起こり、陸游は独断で官有米を使って住民を救ったが、責任を問われて免職となり、郷里に帰った。以後は、2度の任官を除き、20年近く隠棲した。現存する詩は、この期間のものがほとんどを占める。1186年に厳州知州となり、『剣南詩稿』を刊行した。孝宗が光宗に譲位すると、主戦論の直言などが災いして、「風月を嘲詠した」という理由で罷免された。のちに寧宗のもとで、韓侂冑の推薦で出仕し、『孝宗実録』『光宗実録』を編纂した。
故郷では、晴耕雨読の日々を送り、酒屋で大勢と酒を酌み交わし、豊富な知識を生かして薬を作って与えるなど、近隣の庶民と分け隔てなく付き合い、慕われた。念願の中原回復はかなわぬまま、86歳で世を去った。辞世の詩「示児」は、王師が北のかた中原を定める日に、家の祭りで父に告げることを忘れるなと、息子たちに告げる。
同じ年に亡くなった人物
- カイホスロー1世 (1210年没)
- アルナウト・ダニエル (1210年)
- ジャン・ボデル (1210年)
- コンラート2世 (ラウジッツ辺境伯) (1210年)
- リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公) (1210年代没)
同じ地域に関係する人物
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- マルティノ・マルティニ (1661年没)
- 呉鎮 (1354年没)
- フレデリック・タウンゼント・ウォード (1862年没)
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