伝記
ヴィルヘルムは、1184年4月11日に生まれ、1213年12月12日(13日とも)に没した、ヴェルフ家出身のリューネブルク公である。ウィンチェスターのヴィルヘルムとも、長剣のヴィルヘルムとも呼ばれる。バイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ獅子公と、イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの長女マティルダの間に生まれた五男で、末子にあたる。ライン宮中伯ハインリヒ5世と、のちの神聖ローマ皇帝オットー4世の弟である。父が皇帝フリードリヒ1世に帝国追放に処され、亡命していたイングランドのウィンチェスターで生まれた。獅子公が1185年にザクセンに戻ったときもイングランドに残り、祖父ヘンリー2世、あるいは叔父リチャード1世の宮廷で育てられたとみられる。
父の獅子公は、反乱に失敗し、1181年にフリードリヒ1世に降伏して、ドイツを追われたが、リューネブルク、ブラウンシュヴァイク、ハルデンスレーベン周辺の領地は残された。獅子公は、1194年にフリードリヒ1世の息子ハインリヒ6世と和解し、リチャード1世を解放するための身代金の支払いのため、息子のヴィルヘルムとオットーを人質に差し出した。ヴィルヘルムは、オーストリア公レオポルト5世に引き渡され、一時ハンガリーに拘留された。1195年に獅子公が亡くなると、ヴィルヘルムと、兄のオットー、ハインリヒ5世は、父のザクセンの私領を相続した。兄弟は、ケルン大司教アドルフ・フォン・アルテナと協定を結び、アドルフは、1198年に、ホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フィリップとのローマ王位争いのなかで、オットーを王位につけた。1199年に叔父リチャード1世が亡くなると、ヴィルヘルムとハインリヒは、叔父ジョンに対して相続の権利を主張するため、再びイングランドに渡ったが、成果はなかった。
1201年にデンマークがホルシュタインを征服した後、ヴィルヘルムはハンブルクで、デンマーク王クヌーズ6世の弟ヴァルデマーと出会い、そこで王の妹ヘレーネとの結婚を取り決めた。2人は1202年の春に結婚し、莫大な持参金がもたらされた。しかし、ホルシュタインでの支配を引き継ぐというヴィルヘルムの希望は、デンマークの宮廷によって砕かれた。1202年5月、兄弟はパーダーボルンに集まり、父の遺領を分けた。ヴィルヘルムは、リューネブルク周辺のデンマーク国境までの北部の領地、エルベ川の向こうのラウエンブルク、ヒッツァッカー、リュッホ、ダンネンベルク、ハルデンスレーベン周辺、ハルツ山脈東部のブランケンブルクとハイムブルク、レーゲンシュタイン城を受け取った。そして、リューネブルク周辺の塩の取引に頼って支配を固めることに力を注ぎ、リューネブルクに居を構えた。
1213年にヴィルヘルムが没すると、兄のオットー4世が、ヴィルヘルムの息子オットーの後見人となった。ヴィルヘルムとヘレーネの一人息子であるこのオットーは、のちに父の領地を相続し、1235年に初代のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公となった。オットー4世とハインリヒ5世は、ともに男子なく死んだため、この息子がヴェルフ家の領地の唯一の相続人となり、のちのブラウンシュヴァイク=リューネブルク公家の祖となった。
同じ年に亡くなった人物
- Mkhitar Gosh (1213年)
- マリア・デ・モンペリエ (1213年没)
- フェリー2世 (ロレーヌ公) (1213年没)
- リューベックのアーノルド (1213年(推定))
- シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィ (1213年)
同じ地域に関係する人物
- アウグスト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1666年没)
- ヨゼフ・チャペック (1945年没)
- ヘルベルト・オットー・ギレ (1966年没)
- ドロテア・ア・ダンマーク (1546-1617) (1617年没)
- オットー・ヴェーラー (1987年没)