伝記
アントニ・ガウディは、1852年6月25日、カタルーニャ地方のタラゴナ県で、父フランセスク・ガウディ・イ・セラと母アントニア・クルネット・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。出生地についてはレウスとその近郊のリウドムスの2説があり、レウス説は洗礼を受けた教会の台帳や学校への提出書類に基づく。父は銅板で鍋や釜を作る銅細工師で、父方も母方も銅細工職人の家系だった。ガウディはこのことが、空間を把握する建築家としての素地になったと考えていたという。幼いころからリウマチを患い、痛みのひどい日にはロバに乗って移動することもあった。病弱で他の子と同じようには遊べなかったが、自然の造形をよく観察する子で、後年には自然を「常に開かれた偉大な書物」と語っている。
1863年、貧しい家庭の子弟のためのピアリスト修道会の学校に入り、エドワルド・トダとジュゼプ・リベラという友人を得た。三人は雑誌を発行し、ガウディは挿絵を受け持ち、学校演劇では大道具や小道具をつくった。三人はタラゴナのローマ遺跡や、廃墟となっていたポブレー修道院にも出かけ、トダが中心となって修復計画を立てたが、ガウディはその案に賛意を示したものと考えられている。1873年から1877年にかけてバルセロナ建築高等技術学校で建築を学び、歴史や経済、美学、哲学にも関心を向けた。学業の傍ら、いくつかの設計事務所で働き、シウタデラ公園の装飾などにも関わった。1878年4月に建築士の資格を取ったとき、校長のエリアス・ロジェントは、彼が狂人か天才かは時が明らかにするだろうと述べたと伝えられる。
同じ年、パリ万国博覧会に出展する手袋店のためにショーケースを設計した。これに目をとめたのが、繊維会社を経営する富豪のエウゼビ・グエイ侯爵であった。侯爵は以後40年あまり、パトロンとしてガウディを支え、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を任せた。1883年にはサグラダ・ファミリア教会の専任建築家に推薦されて就任している。私生活では、20代後半に恋をした女性に振られ、その後の恋も実らなかったとされ、生涯独身であった。
ガウディの建築は曲線と細部の装飾を多用した生物的なもので、構造の合理性と、物語性に満ちた装飾の両面から成り立っていた。美しい形は構造的に安定しており、構造は自然から学ばなければならないと考えた。コロニア・グエル教会地下聖堂では、柱や壁の傾斜を決めるのに数式を使わず、紐と重りによる逆さ吊り模型で約10年にわたり実験を重ねた。設計図は役所に出す最小限しか描かず、模型を重んじたが、模型や資料の多くはスペイン内戦で焼失し、残った資料を手がかりに現在もサグラダ・ファミリアの工事が進められている。
後半生は熱心なカトリック教徒として過ごした。1914年以降は宗教に関わらない依頼を断り、サグラダ・ファミリアに全精力を注いだが、親族や友人の相次ぐ死、バルセロナ市の財政危機で工事は進まなかった。1918年にはグエイが死去し、ガウディ自身も1911年にマルタ熱を病んでいた。1926年6月7日、ミサに向かう途中で転倒して路面電車に轢かれた。痩せていて身なりに構わなかったため浮浪者と間違えられ、手当てが遅れたといい、3日後の6月10日に入院先で亡くなった。遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬された。その作品群は1984年に世界遺産に登録され、2025年4月には教皇フランシスコが英雄的徳を認めて尊者の敬称を付与することを承認した。
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