伝記
ジョン・モーゼス・ブローニングは、1855年1月23日にアメリカ合衆国ユタ州のオグデンで生まれた銃器設計家である。父ジョナサンは銃技師で、末日聖徒イエス・キリスト教会の教会員であり、妻を二人持ったため兄弟は異母兄弟5人を含めて多かった。父は商売も繁盛し、一時は地方判事にも選ばれた。長男のジョンは特に器用とされ、18歳のころから父の銃砲店で銃の修理を手伝い、手作りの革靴も評判になった。店を継いだ24歳のとき、自らレバーアクション式の単発ライフルを開発し、1879年10月7日付けで特許を取得した。同じ年に生涯の妻レイチェルと結婚したが、この年に父が世を去った。兄弟は弟マシューの提案で、銃の修理で生計を立てつつジョンのライフルを売ることにした。
このライフルに注目したのが、ウィンチェスター社のセールスマンだった。社長のトーマス・G・ベネットは大陸横断鉄道に乗ってオグデンまで会いに行き、在庫品と特許を8000ドルで買い取った。これが1885年に登場したウィンチェスターM1885である。特許売却で大金を得た兄弟は、1883年に「ブローニング兄弟商会」の銃砲店を設立し、ジョンは設計開発に専念、マシューが経営を管理した。続いて開発した新型のレバーアクションライフルはウィンチェスターに50,000ドルで買い取られ、1886年から1932年までに約16万挺が作られる空前のヒット商品となった。ベネットに頼まれたレバーアクション式ショットガンは、1885年6月に特許を申請し、世界初のこの型であるM1887となった。1890年には、銃身下の送弾機を前後に動かして装填と排莢を同時に行うポンプアクション方式を考案し、M1893、M1897へと発展した。
ポンプアクションの買取りをウィンチェスターに求めたジョンに対し、ベネットは引き続きレバーアクションのライフル設計を依頼した。多様な口径を撃てる近代的な民間ライフルを求められたジョンは、「30日以内に作るから2万ドルほしい、一日でも遅れれば1セントもいらない」と答え、約束を果たした。これがM92で、100万挺も売れたという。
一方で、発射ガスの余剰エネルギーで次弾を装填できないかと考えたジョンは、銃口にキャップを付けた試作銃を作り、カウボーイのガンベルトにヒントを得た弾帯で連続射撃のできる機関銃を完成させた。軍用に使われることを望んで、売り込み先をウィンチェスターから軍用銃器で知られるコルト社に変え、1893年から1895年にかけて何度も大陸を横断して改良を重ね、1895年にコルト・ブローニングM1895重機関銃として販売された。この機関銃は手回し式のガトリング銃を過去のものにしたとされる。この機構を拳銃にも応用して自動式拳銃を作り、コルト社は製造権を買い取って、M1900はアメリカ国内で初のオートマチック式拳銃となった。
ウィンチェスター社との関係は契約金の支払いなどでこじれ、ベネットが自動式ショットガンの買取を拒んだことで決定的となった。ジョンは渡欧してベルギーのFN社と契約し、家族とその近くに移住してM1910を開発し、長くアメリカ軍の制式拳銃だったM1911や、1917年に採用された自動小銃BARなども設計した。これらの製造権はわずか75,000ドルで軍に譲ったが、民間に売れば1000万ドルを超えたともいわれる。1926年11月26日、61回目のベルギー旅行でFN社の工場を見学したあと、胸の痛みを訴えて倒れ、数分後に亡くなった。128の特許を取り、世界の軍用銃で彼の発明に頼らないものはないとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アントニ・ガウディ (1926年没)
- シモン・ペトリューラ (1926年没)
- バーバラ・ラ・マー (1926年没)
- ベッシー・コールマン (1926年没)
- Giuseppe Allamano (1926年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョセフ・ルボー (1865年没)
- Denis Houf (2012年没)
- マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ (1902年没)
- クリス・ブリストウ (1960年没)
- Emile Masson (1973年没)