HISTORICAL PERSON · 1220年代没

アデル・ド・フランス (ヴェクサン女伯)

フランス王ルイ7世の娘としてリチャード1世と長く婚約しながら破棄され、その間イングランド王ヘンリー2世の愛人であったと噂され、両国の確執を長引かせた。

生涯
1220年代没
死亡地
フランス共和国(ソンム県 / ポンテュー伯)
出生地
フランス王国(フランス王国)
出典
世界地図
フランス共和国(ソンム県)

伝記

アデル・ド・フランスは、1160年10月4日に生まれ、1220年ごろに没したとされるヴェクサン女伯である。アデライード、アリスなどとも呼ばれ、ルイ7世が最初の妃アリエノール・ダキテーヌとの間にもうけた異母姉アリックスと、しばしば混同される。フランス王ルイ7世と、2番目の妃コンスタンス・ド・カスティーユの娘で、母は出産のときに亡くなった。ルイ7世は、アンジュー帝国に対抗するため、ただちに3番目の妃アデル・ド・シャンパーニュと再婚し、5年後に、唯一の男子フィリップ2世をもうけた。異母姉にマリー、同母姉にマルグリットがいる。

1169年、モンミライユでの和平交渉は、イングランド王ヘンリー2世の息子たちが、将来の領地についてルイ7世に臣従の礼をとることで終わった。このとき、12歳のリチャード(のちのリチャード1世)と、9歳のアデルの婚約が結ばれた。ヘンリー2世は、嫁資の土地であるオマール伯領とウー伯領をすぐ手に入れるため、アデルをイングランドに呼び寄せ、幼いときから王夫妻のもとで育てた。姉のマルグリットのときと同じである。モンルイの和平条約で、ルイ7世は、結婚の約束を改めて確かめたが、ヘンリー2世は守らなかった。ベリー地方の支配をめぐって両王の関係は悪化し、ヘンリーは1176年に、婚約のときにベリー全域をアデルに譲ると言っていたと発表した。

1174年、ヘンリー2世は、反乱を起こした息子たちを討つなかで、妃アリエノールを捕らえた。アリエノールの取り巻きだった息子の妻や婚約者たちは、ポワティエに呼び集められ、そのなかにアデルがいた。アデルは、リチャードと結婚させないまま置かれ、ヘンリー2世が自分のものにしたと噂された。この関係は、おおむね事実だったとされる。ヘンリーの愛妾ロザモンド・クリフォードが1176年に亡くなった直後、ヘンリーがアデルを寝床に迎えたという噂もある。1177年、教皇アレクサンデル3世が、約束の結婚を行わなければ破門すると、ヘンリー2世に警告したが、実現しなかった。ルイ7世は、娘の身を案じながら、1180年に亡くなった。

代わって即位した異母弟フィリップ2世は、婚約問題を引き継いだが、話は進まなかった。この間に、アデルは男児を産み、父親はヘンリー2世とする噂があった。ヘンリーは1186年の四旬節にも結婚を約束したが、実行しなかった。1188年、リチャードを支持するフィリップ2世が、結婚の実現を求めたが、ヘンリーは応じず、1189年に没した。リチャード1世は、アデルをルーアンに呼び寄せた。1191年3月、リチャード1世は、イングランド側から1万マルクの違約金を出して、婚約を破棄した。歴史家ロジャー・オブ・ホーヴデンは、リチャードが、フィリップ2世に「あなたの妹を拒むのではないが、私の父が彼女と寝て、彼女に子を産ませたので、結婚はできない」と述べたと伝える。リチャードは、5月にベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚した。1192年には、フィリップ2世が、リチャード1世の弟ジョンに、アデルとの結婚とリチャードへの謀反を誘ったが、摂政のアリエノールに阻まれた。

1195年、アデルは二十数年ぶりにフランスに帰り、フィリップ2世によって、ただちに、ポンチュー伯と結婚させられた。ポンチュー伯は、1178年ごろの生まれで、アデルより若かった。持参金には、ノルマンディーの町ウーとアルク=ラ=バタイユがあった。2人の間には、一人娘マリーが生まれ、ポンチュー伯領を相続した。アデルは、1213年の少しあとに、50歳ほどで亡くなったとする記録もある。

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