伝記
インゲボルグは1175年(1174年とも)に、デンマーク王ヴァルデマー1世と、ミンスク公の娘である王妃ソフィヤの四女として生まれた。父は1182年に亡くなり、兄が王位を継いだ。1193年8月14日、フランス王フィリップ2世の後妻としてアミアンの大聖堂で結婚した。持参金として銀1万マルクがデンマークから支払われたが、小国にとっては重い負担だった。気だてがよく教養豊かな美女だったという。フィリップには、神聖ローマ帝国側にいるデンマークを味方に引き入れたいという思惑があった。
ところが結婚の翌日、フィリップは心変わりし、デンマークの大使に王妃を連れて帰るよう頼んだ。大使はこれを即座に断った。理由については初夜をめぐる逸話があるが、正確なところは分かっていない。インゲボルグはサンモールの修道院などを転々として幽閉された。やがてフィリップはインゲボルグがデンマーク王クヌーズ4世の子孫だとする家系図を偽造し、7親等以内の血縁があると主張した。ランス大司教で王の伯父にあたるギヨームが王に味方したため、教会会議は婚姻の無効を宣言した。インゲボルグはフランス語もラテン語も話せなかったが、「悪しきフランス」「ローマ、ローマ」という言葉で異議を訴え、教皇ケレスティヌス3世に救いを求めた。教皇は家系図が偽造だと見抜いて彼女を支持し、王に妃と暮らすよう命じたが、王は従わず、インゲボルグはトゥルネー近くの修道院に幽閉された。
1196年、フィリップはメラーン公の娘アニェスと結婚した。教皇は彼女と別れてインゲボルグを呼び戻すよう再三諭したが、王が聞き入れなかったため、教皇インノケンティウス3世は1198年に王を破門し、フランス全土に聖務停止を命じた。ミサも洗礼も結婚も葬儀も行えなくなり、埋葬されない遺体が墓地に並んで伝染病が流行したという。翌1199年、王は突然アニェスを追い出してインゲボルグを呼び戻した。イングランド王ジョンとの戦いで教皇の支持が必要だったためとされる。アニェスは1201年に3人目の子を産んで亡くなった。王はこれをインゲボルグのせいにして、彼女をエタンプの城に閉じこめた。召使いは遠ざけられ、食事も満足に与えられなかったと伝わる。彼女の詩篇集からは、長く幽閉されたのちに復帰した王妃アリエノール・ダキテーヌに勇気づけられていたことがうかがえる。
1213年、フィリップはフランドル軍との戦いで大敗し、帆船の大半を失った。そこで王が思い浮かべたのが、強い海軍をもつデンマークで、当時の王はインゲボルグの兄ヴァルデマー2世だった。王は幽閉先のエソンヌの小島へ急いだ。インゲボルグは10年以上の過酷な幽閉を生き延びており、38歳になっていた。王は彼女の手を取って長年の仕打ちを詫び、解放した。インゲボルグは苦しみを許した。王宮に戻ると、王太子ルイと王太子妃ブランシュから手厚くもてなされた。デンマークは参戦しなかったが、翌1214年のブーヴィーヌの戦いでフランス軍は勝利し、インゲボルグはこれをことのほか喜んだという。フィリップは結婚時の持参金の銀を彼女に返した。
1223年、臨終の王は王太子ルイを呼び、インゲボルグの行く末を頼んで「このマダムには苦労をかけたから」と涙したという。ルイ8世もルイ9世も彼女を王妃として遇した。インゲボルグは夫の死後、コルベイユのサン=ジャン=アン=リル修道院で残りの生涯のほとんどを過ごした。1236年7月29日に没したとされるが、1237年か1238年とする記述もある。サン=ドニ大聖堂に葬られたいと遺言したが、結局この修道院に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・ル・シャンスリエ (1236年没)
- ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー (1236年)
- アズィーズ・ムハンマド・ブン・ガーズィー (1236年)
- シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ (1236年没)
- ベイルート領主ジャン・ディブラン (1236年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョゼフ・カントルーブ (1957年没)
- フランソワ=アドリアン・ボイエルデュー (1834年没)
- エドモン・ド・ゴンクール (1896年没)
- バートラム・ラムゼー (1945年没)
- ジュリエット・ベルト (1990年没)