伝記
フィリップ・ル・シャンスリエは1165年ごろ(1160年ごろとも、1165年から1185年の間ともいわれる)、パリの有力な聖職者の家に生まれた。パリの副司祭だったフィリップの庶子とされ、叔父ピエール・ド・ネモールは1208年から1218年までパリ司教を務めた。この叔父が聖職者としての歩みを助けたことは間違いないと考えられている。フィリップはパリ大学で学び、1206年ごろに神学の教授資格を得た。1211年にはすでにノワイヨンの副司祭で、この地はかつてシャルルマーニュやユーグ・カペーが王として戴冠式を行った由緒ある土地である。1217年ごろ、パリのノートルダム大聖堂の尚書局の長に就いた。シャンスリエとはこの役職を指す名で、この職はパリ大学の学長も兼ねていた。
パリ大学はノートルダム大聖堂の付属学校に起源をもち、1215年ごろに教皇インノケンティウス3世の許可を受けて大学として発足していた。大聖堂、つまりパリ司教の管轄下にあり、フィリップが就任したころは、自治権の拡大を求める教師や学生と、それを拒むノートルダム側とが対立していた。当初フィリップはノートルダム側に立ち、自治権を求める者の大半を破門したらしい。教皇ホノリウス3世は回復を命じたが、解決には長い年月がかかった。1225年から1228年にかけて、フィリップは主著『スンマ・デ・ボノ(善の大全)』を書いた。これは西洋哲学の歴史で、超越概念の教説を本格的に扱った最初の著作とされ、最初期のパリの学者たちに大きな影響を与えた。アリストテレスの自然学や形而上学の最初期の翻訳を用いながら、プラトンとアウグスティヌスの伝統にも従い、一なるものと善の存在論的な同一性を示そうとした。ほかに詩篇に関する著作もある。1228年には、パリの司教の座をめぐってオーヴェルニュのギヨームに敗れた。
1229年、市民と学生の間の揉め事をきっかけに、パリ大学はストライキに入った。フィリップは今度は大学の教師や学生と、それを後押しする教皇の側に立ち、影響力を残そうとするパリ司教や宮廷と対立した。ストライキは1231年に教皇グレゴリウス9世が教書を出して止めさせるまで続いた。この間、フィリップは事態の収拾を図ってローマへ旅行し、その折にアリストテレスの著書の新訳を行ったという。フィリップは同時代の托鉢修道会の敵のように描かれてきたが、それは大きく誇張されたものとされ、死の直前にフランシスコ会に入った可能性もある。1236年12月26日に亡くなったとされ、死ぬまでノートルダムの尚書を務めた。
フィリップは中世で最も多作な叙情詩人の1人で、同世代の詩人は「ジョングルールたちの集まりに出かけて歌い、ヴィエラを演奏した」と書き残している。音楽が好きだったらしい。単声のコンドゥクトゥス58曲と多声のコンドゥクトゥス9曲が彼の作とされるが、すべて既存の旋律を使った替え歌で、作曲はしなかったようである。ノートルダム楽派のペロティヌスをよく知っていたと思われ、ミサの奉献唱か聖体拝領唱の代わりの曲と思われる『ベアタ・ヴィスケラ』など、2人の共作らしい作品も残る。ペロティヌスの曲に歌詞をつけ、最初期のモテトを生んだともいわれる。作品と思われるラテン語の詩の多くが『カルミナ・ブラーナ』などに残り、その詩はノートルダム楽派の多くの作曲家に使われた。
同じ年に亡くなった人物
- ゴティエ・ド・コワンシー (1236年)
- ベルリンギエーリ (1236年没)
- ムイーヌッディーン・チシュティー (1236年没)
- ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー (1236年没)
- ベイルート領主ジャン・ディブラン (1236年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・アザール (1944年没)
- ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー (1842年没)
- ジョゼフ・ビヤンネメ・カヴェントゥ (1877年没)
- アデライド・ラビーユ=ギアール (1803年没)
- ジョルジュ・ルオー (1958年没)