伝記
イブン・アラビーは、1165年7月28日に生まれ、1240年11月10日に没した中世のイスラーム思想家である。存在一性論と完全人間論を唱え、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の確立に寄与し、後世に大きな影響を与えた。アンダルシアのムルシアで、アラブ系の名門に生まれた。12世紀後半にセビリアを統治していたムワッヒド朝のユースフ1世は文化を重んじ、宮廷にはイブン・ルシュドやイブン・トゥファイルらが集い、セビリアは当時を代表する文化都市のひとつであった。
父アリーはイブン・ルシュドと親しく、主著のひとつ『マッカ啓示』の記述によれば、イブン・アラビーは15、16歳のころにイブン・ルシュドと面会し、老齢の彼はその洞察力に驚いたという。交流はその後も続き、1194年にイブン・ルシュドがコルドバで没したとき、30歳のイブン・アラビーは葬儀に参列した。青年期にセビリアで法学、神学、ハディース学を学んだが、病床で幻視体験をしたことからスーフィズムを学ぶようになった。以後の10年ほどはアンダルシアとマグリブ各地を遍歴し、スーフィー行者とともに修行した。師にはアブー・ジャアファル・ウライニーらがおり、ファーティマ・ビント・ムサンナーら女性の行者からも学んだことが知られる。
その生涯の大部分は旅に費やされた。1200年から1201年にかけて夢告を受け、マッカ巡礼を志して東方へ旅立ち、1202年にカイロ、エルサレムを経てマッカ巡礼を果たし、そのまま2年間滞在して研究に没頭した。その集大成が『マッカ啓示』であり、1204年に著したとされる。同年、コンヤとマラティヤの巡礼団を率いてきたマジュドゥッディーン・イスハークと出会い、その誘いで1205年にコンヤへの復路に同行し、のちにマラティヤに移り住んだ。ルーム・セルジューク朝のカイホスロー1世の宮廷にイスハークが招かれた際には、同時に伺候して謁見し、下賜品を受けた。イスハークの息子は、のちに直弟子として教説の流布に奔走したサドルッディーン・クーナウィーである。1212年にはバグダードを訪れ、カイカーウース1世のために実践的な助言を書簡に残している。1221年には息子サアドゥッディーン・ムハンマドが生まれた。
晩年は、支援者だった富豪の招きでダマスクスに居を定めた。遅くとも1230年には同地にいたことが知られ、言説への反対者から厳しい批判を浴びながら、多くの擁護者にも恵まれた。ここで夢告により、アダムから預言者ムハンマドに至る27名の預言者の伝記・思想論集『叡智の台座』を著した。本人によれば、夢の中にムハンマドが現れて手渡された書物の名が、この題であったという。詩人でもあり、著作は生涯で200を超える。没後、郊外のカシオン山の中腹に墓廟が築かれ、周辺は彼の名にちなむ「ムフイッディーン地区」と呼ばれる。
思想の中心は存在一性論である。世界はすべて一者の自己顕現として理解され、自存する神アッラーフと、それに依拠して初めて存在する被造物とに分けられる。人間は神の属性の集合であり、それを自覚した完全人間が預言者で、ムハンマドはその最後の人物とされた。彼の思想はクーナウィーらによって体系化され、多くの注釈書が書かれた一方、イブン・タイミーヤらの批判も生み、のちのオスマン朝や中国のイスラーム思想にも影響が及んだ。
同じ年に亡くなった人物
- Methodius II of Constantinople (1240年)
- ゲルマヌス2世 (1240年)
- ルドミラ・フォン・ベーメン (1170-1240) (1240年没)
- ハイスターバッハのカエサリウス (1240年没)
- Serapion of Algiers (1240年)
同じ地域に関係する人物
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- ヌールッディーン (1174年没)
- バースィル・アサド (1994年没)
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