伝記
ルキウス・リキニウス・クラッススは、共和政ローマの政務官で、同時代のローマで最高の弁論家として知られた人物である。紀元前140年に生まれ、紀元前91年に没した。紀元前95年に執政官となり、同僚とともにローマ市民権を持たない者をローマから退去させる法を成立させた。この法は同盟市戦争の一因とされる。
リキニウス氏族のクラッスス家の出で、祖父は紀元前168年の執政官ガイウス・リキニウス・クラッススと考えられている。義父は鳥卜官のスカエウォラで、クラッススはこの義父を深く尊敬していた。執政官選挙で人に頭を下げて回る姿を見られたくないと願ったという逸話がある。若い頃は訴追人として名を上げ、ガイウス・パピリウス・カルボを、グラックス兄弟を裏切った者として訴追した。のちにカルボの息子とは和解している。紀元前118年には植民市建設三人委員に選ばれ、ナルボの建設に関わった。紀元前114年には、27歳で、淫行の罪に問われたウェスタの処女リキニアを弁護し、その雄弁で人々を驚かせたという。官職の経歴は、紀元前107年の護民官に始まる。紀元前106年には執政官大カエピオの提案した審判人法の成立に貢献した。キケロはこのときの演説を子供の頃から模範として暗誦していたとされる。その後、同僚のスカエウォラ・ポンティフェクスとともにアエディリスとなり、盛大な催しを開いた。紀元前98年までにはプラエトルに就いたと考えられる。
紀元前95年にはそのスカエウォラとともに執政官となり、「リキニウス・ムキウス法」を制定して居住権を厳格に適用した。キケロは、これを法的には正しいが道義的には少々問題があると評している。イタリックの人々を追い詰め、いっそう過激な反対運動へ向かわせたとも考えられる。任地はガリア・キサルピナで、小規模な敵を倒して凱旋式を求めたが、同僚スカエウォラに拒否権を行使された。紀元前92年にはケンソルとなった。同僚のグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとは仲が悪く、邸宅の大理石や庭木、愛玩のうなぎの死をめぐって非難しあったと伝わる。二人はまた、当時流行していたラテン語の修辞学教室を、父祖の風習に合わず若者に有害だとして閉鎖させ、マルクス・スカウルスをプリンケプス・セナトゥスに再指名した。
弁論では、準備を重ねるほど出来がよくなる当代一の人物とキケロに評された。アントニウス・オラトルと法廷で争ったこともある。キケロは子供の頃、クラッススがギリシャ人学者たちと見事なギリシャ語で議論していたことを覚えている。ユーモアにも長け、見目の悪い相手側弁護人に妨げられたときは、「この美青年の話を伺うとしようか」と述べて笑いを誘ったという。
紀元前91年、護民官ドルススが改革案を出すと、クラッススはスカウルスらとともに支持した。この案には、執政官ルキウス・マルキウス・ピリップスが強く反対した。クラッススは元老院でピリップスを激しく弾劾し、肺の激痛と油汗に耐えながら、元老院の働きをたたえる動議を提出して満場一致の決議を得たが、拒否権で取り消された。これが彼の最高の弁論で、キケロは白鳥の歌にたとえた。ピリップスが差し向けたリクトルの手をかわし、君が私を議員と見なさないなら私も君を執政官とは認めない、と宣言したという。クラッススは同年9月、胸膜炎で亡くなったと思われ、死の直前までドルススの改革案を支持していた。土地分配十人委員に選ばれ、鳥卜官でもあったと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- 衛子夫 (紀元前91年没)
- マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官) (紀元前91年没)
- アンティオコス11世 (紀元前91)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクス (紀元前91年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャコモ・デッラ・ポルタ (1602年没)
- ルキウス1世 (ローマ教皇) (254年没)
- アルベルト・ベヴィラックァ (2013年没)
- ピエロ・タルッフィ (1988年没)
- ステファヌス2世 (ローマ教皇) (757年没)