伝記
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスは、共和政ローマ後期の軍人、政治家である。生年は紀元前160年頃とも紀元前152年頃ともいわれ、没年は紀元前91年とされる。紀元前109年にコンスルを務め、ユグルタ戦争でヌミディアに出征した。のちに閥族派の指導者として、民衆派のガイウス・マリウスと激しく対立した人物である。
出身は有力なプレブスの家柄であるカエキリウス・メテッルス家である。父は紀元前142年のコンスルであるルキウス・カエキリウス・メテッルス・カルウス、おじは紀元前143年のコンスルで将軍のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスだった。兄弟には紀元前119年のコンスルのルキウス・カエキリウス・メテッルス・ダルマティクスがいる。姉妹の一人カエキリア・メテッラ・カルウァはルキウス・リキニウス・ルクッルスに嫁ぎ、のちの将軍ルクッルスの母となった。従兄弟にも複数のコンスルがおり、一門は当時のローマ政界を支配していた。姪のカエキリア・メテッラ・ダルマティカは、のちにルキウス・コルネリウス・スッラの妻となった。若い頃はアテネに送られ、哲学者カルネアデスのもとで学んだ。ローマに戻ると教養ある優れた雄弁家として名を知られるようになった。官職の経歴は紀元前126年のクァエストルに始まり、紀元前121年には護民官となったとされる。
紀元前109年、メテッルスはマルクス・ユニウス・シラヌスとともにコンスルに就き、軍を率いてヌミディアでユグルタと戦った。戦いは長引き、配下の武将マリウスとの対立が表面化した。マリウスは紀元前108年にローマへ戻ってコンスルに当選し、のちにプロコンスルとして戦争を続けた。ユグルタによるローマ軍高官への買収工作など軍の腐敗も明らかになっており、泥沼化の責任を負う形でメテッルスは任地を去ったとされる。その際に「ヌミディクス」の尊称を受けた。一方、ユグルタをマウレタニアまで追い払ったことが評価され、ローマでは好意的に迎えられて紀元前106年に凱旋式を挙げたともいわれる。
戦争が終わると、メテッルスは元老院の保守的な貴族を代表する閥族派の指導者となり、マリウスの改革や軍制改革に強く反対した。元老院第一人者マルクス・アエミリウス・スカウルスを中心とする、古い共和政の価値を守る立場の一人でもあった。紀元前100年にはほかの議員が皆従うなか、ただ一人マリウス派の法に従おうとしなかったとされる。紀元前102年には従兄弟のガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウスとともにケンソルに選ばれた。在任中にはマリウス派のルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスを元老院から除こうとしたが、うまくいかなかった。のちにサトゥルニヌスとマリウスが退役軍人に土地を与える条項を含む農地法を提案すると、メテッルスは反対した。さらに、元老院議員に法への賛意を示す宣誓を求める場面でも、最後まで宣誓を拒んだ。その結果、ローマを去って亡命した。この亡命は自主的なものとも、サトゥルニヌスらに迫られたものともいわれる。
紀元前99年、息子のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの努力によって帰国がかなったとされる。帰国の年は紀元前98年ともいわれる。息子の尊称ピウス(慈悲深い人)は、この働きに由来する。ピウスはのちにスッラの有力な支持者となった。メテッルス自身はパラティヌスの丘の邸宅で余生を送り、紀元前91年に亡くなった。腐敗が進む時代にあって、清廉な政治家であり優れた将軍でもあったと評されている。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・リキニウス・クラッスス (紀元前91年没)
- マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官) (紀元前91年没)
- 衛子夫 (紀元前91年没)
- アンティオコス11世 (紀元前91)
同じ地域に関係する人物
- レオ5世 (ローマ教皇) (904年没)
- ピウス1世 (ローマ教皇) (155年没)
- キャドワラ (689年没)
- ルキノ・ヴィスコンティ (1976年没)
- ボニファティウス5世 (ローマ教皇) (625年没)