伝記
ブシャール4世・ダヴェーヌは、アヴェーヌおよびエトルーンの領主である。父はジャック・ダヴェーヌ、母はギーズ領主の娘アデルで、兄にゴーティエ2世がいる。生年は1170年ごろとも、1182年ともいわれる。若いころははっきりしない。1191年に父が獅子心王リチャードの十字軍に従ったとき、ブシャールもリチャードから騎士に叙されたと伝える説がある。別の説は、オルレアンの学校で法律を学んだのち、聖職者の道に入って副助祭となり、ランの教会で参事会員の職を得たとする。1211年12月12日付の教皇インノケンティウス3世の勅書は、すでに彼が聖職者の衣を捨てて剣を取ったと非難している。
1212年、ブシャールはエノーの代官に任じられ、1205年に亡くなったフランドル伯・エノー伯ボードゥアンの末娘マルグリットの後見を任された。この立場で、マルグリットの結婚をめぐる計画に反対した。フランス王フィリップ尊厳王や姉ジャンヌ夫妻が、それぞれ縁組を進めていたのである。ブシャールはフランス王の同意を得て、ル・ケノワの城でマルグリットと結婚した。ジャンヌとその夫フェランはこの結婚に同意しておらず、阻止しようとして果たせなかった。当時フランスと戦争中だった夫妻は、マルグリットが求める相続分をめぐって調停者を立てるしかなかった。ブシャールは兄ゴーティエの領地にも攻め入るなど、好戦的な生涯を送った。1214年7月のブーヴィーヌの戦いでは、敗れたフランドル側に立って戦った。
この戦いが終わると、ジャンヌ、または一説にはフランス王が、ブシャールが前に副助祭の叙階を受けていたことを教皇に訴えた。1215年のラテラン公会議のさなかに、教皇は聖職者の独身に反するとして結婚の無効を決めた。夫妻が従わなかったため、ブシャールは1216年1月19日に破門され、のちの教皇ホノリウス3世もこれを確認した。ジャンヌの軍がブシャールの領地に入り、夫妻はルクセンブルク公ヴァルラン3世の保護のもと、アルデンヌのユファリーズ城に逃れた。そこで息子ジャンが1218年に、のちに年代記作者となるボードゥアンが1219年に生まれた。1219年にブシャールは戦いの最中に捕らえられ、ヘントに2年間幽閉された。解放にあたって、マルグリットは結婚の解消を受け入れ、ブシャールは教皇のためにイタリアへ向かった。ジャンヌに説得されたマルグリットは、1223年にギヨーム・ド・ダンピエールと再婚した。
ブシャールの没年ははっきりせず、1244年ごろとされる。ヘントでの幽閉のあとジャンヌの命で斬首されたという説もあるが、ローマ行きや聖地巡礼は解放後のことで、エノーに戻って1225年に偽ボードゥアンを真の伯と認めた者の1人だったという見方のほうが有力とされる。ブシャールとマルグリットの子らは、ダンピエール家の者に預けられ、10年間オーヴェルニュの城に留められていた。1244年に姉ジャンヌが子なくして亡くなり、マルグリットがフランドル女伯・エノー女伯になると、2つの結婚の子の間で相続争いが起きた。1246年、ジャン・ダヴェーヌの求めでフランス王ルイ9世が調停に入り、フランドルをダンピエール家に、エノーをアヴェーヌ家に与えると決めた。1249年11月24日、教皇インノケンティウス4世の勅書により、シャロンの修道院長が証拠は十分と判断し、兄弟の出生は正当と宣言された。ジャンはエノー伯、ボードゥアンはボーモン領主となった。
同じ年に亡くなった人物
- 耶律楚材 (1244年没)
- ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公) (1244年没)
- ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル (1244年没)
- レオノール・デ・カスティーリャ (1244没) (1244年没)
同じ地域に関係する人物
- ハンス・ブラウン (1918年没)
- ルイ・デヴルー (1319年没)
- アーサー・オハラウッド (1918年没)
- カールマン (フランク王) (771年没)
- ジョージ・ハトソン (1914年没)