伝記
ヨハネス・コムネノス・ドゥーカスは、エピロスとテッサロニキを支配し、皇帝を名のったテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの長男である。母はマリア・ペトラリファイナという。父系ではアンゲロス家の出だが、実際にはその名を使っていない。生年は分からない。
1230年、父テオドロスは家族とともに、クロコトニツァの戦いでブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世に捕らえられた。1237年に姉妹のイレーネがイヴァン・アセン2世と結婚すると、ヨハネスは、すでに目が見えなくなっていた父と弟デメトリオスとともに捕らわれの身から解放された。父と息子たちはテッサロニキに戻り、1230年から町を治めていた叔父マヌエルに対する反乱をあおった。父は目が見えないため、息子のヨハネスを支配者に据え、自分はヴォデナに引きこもった。こうしてヨハネスは1237年にテッサロニキの支配者となった。しかし、この措置はかえって一族の結束を弱めた。追放されたマヌエルはテッサリアに、父の従兄弟のミカエル2世はエピロスに、それぞれ独立した勢力を築き、かつての「帝国」は3つに分かれてしまった。さらにテオドロスとヨハネスの支配はブルガリア帝国の影響下に置かれ、政治力は大きく弱まった。
1239年、追放されていたマヌエルがニカイアの助けを得て戻り、テッサリアを手に入れた。テオドロスとヨハネスはこれを追い出せず、その領地を失うことを受け入れた。1241年にイヴァン・アセン2世が亡くなると、ブルガリアの宗主権とテッサロニキへの保護は失われた。このころ、あるいはそれ以前から、ヨハネスはかつて父が使った皇帝の称号を用い始めた。この主張と、守りの弱い立場は、コンスタンティノープルの奪回をめざすニカイア皇帝ヨハネス3世ヴァタツェスの注意を引いた。ヴァタツェスはテオドロスを会談に呼んで逮捕し、1242年に軍を率いてテッサロニキに向かった。町に着くと、テオドロスを息子のもとに送って降伏を説得させた。ヨハネスは簡単に説得され、専制公の称号で満足し、ニカイアの宗主権を認めることになった。ヴァタツェスはヨハネスに専制公の称号と衣装、靴、徽章を贈り、ヨハネスは皇帝に属する衣装、靴、徽章を身につける権利と、赤いインクで署名する権利を放棄した。ヴァタツェスは、侵入してきたセルジューク朝のトルコ人に備えるため、急いで小アジアに戻った。
ヨハネスはニカイアの名目上の宗主権のもとに置かれたが、実質的な独立はかろうじて保った。統治の才能はほとんどなかったとされ、聖職者になりたがっていたともいわれる。1244年に亡くなり、弟のデメトリオスが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- レオノール・デ・カスティーリャ (1244没) (1244年没)
- ブシャール4世・ダヴェーヌ (1244年没)
- 耶律楚材 (1244年没)
- ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル (1244年没)
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