伝記
レオノール・デ・カスティーリャは、1191年ごろとも1200年ともいわれる年に生まれた。カスティーリャ王アルフォンソ8世と、イングランド王女だった王妃エレノア・オブ・イングランドの娘である。父方の祖父母はカスティーリャ王サンチョ3世とブランカ・ガルセス、母方の祖父母はイングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌで、兄にカスティーリャ王エンリケ1世、姉に女王ベレンゲラがいる。両親は1214年に亡くなった。レオノールはその後もカスティーリャにとどまっていたが、兄エンリケ1世が1217年に亡くなった。
1221年2月6日、姉ベレンゲラの助言に従って、レオノールはソリア地方のアグレダで、アラゴン王ハイメ1世と結婚した。ハイメ1世はこのとき13歳か14歳だった。レオノールは夫から、ダロカ、エピラ、ウンカスティーリョ、バルバストロなどの土地を嫁資として受けた。婚礼のあと、2人はサラゴサ地方のタラソナに向かい、ハイメ1世はタラソナの大聖堂で騎士に叙された。2人の間には1222年に息子アルフォンソが生まれた。その後、ハイメ1世は6年間にわたって貴族の反乱に直面し、1227年3月31日のアルカラの和議で、ようやく貴族と合意に達した。
結婚は、1229年(1230年ともされる)に、教皇グレゴリウス9世によって解消された。夫ハイメ1世が親族関係による障害を理由に求めたもので、解消に際しては、レオノールの再婚は禁じられた。息子アルフォンソは嫡出子と宣言された。1234年、カスティーリャとアラゴンの国境にあるサンタ・マリア・デ・ウエルタ修道院で、レオノールの甥にあたるカスティーリャ王フェルナンド3世とハイメ1世が会見した。このとき、レオノールが再婚しない間は、アリサの町と城を受け取り、アラゴン王国で嫁資として得た領地と収益をすべて保つこと、ハイメ1世は、レオノールとともにいた息子アルフォンソを彼女から引き離さないことが取り決められた。レオノールは離縁ののち、修道女となった。
レオノールはブルゴスのサンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院に入り、ここで女王位を退いて引退していた長姉ベレンゲラや、すでに修道女となって久しい妹コンスタンサとともに暮らした。妹は1243年に、レオノールは1244年に、ベレンゲラは1246年に、この修道院で亡くなり、3人ともここに葬られた。息子アルフォンソは1260年、父ハイメ1世に先立って亡くなった。
レオノールの墓は、福音書側(祭壇に向かって左側)の聖カタリナの身廊にある。20世紀半ばに修道院で行われた調査で、遺体はミイラ化して良い状態で、石灰岩の墓に横たわっていることが確認された。墓の上部は2つの勾配をもつ滑らかなもので、以前は彩色されていた。棺は木製でふたがなく、金の組紐で作られた十字架と、一緒に葬られた衣服が残っていた。衣服にはアラビア語を浮き彫りにした織物のものが含まれ、レオノールの大甥の墓で見つかったものと似ているという。
同じ年に亡くなった人物
- ブシャール4世・ダヴェーヌ (1244年没)
- 耶律楚材 (1244年没)
- ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル (1244年没)
- ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公) (1244年没)
同じ地域に関係する人物
- フィデル・パジェス (1923年没)
- レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガル (1359年没)
- ベルムード3世 (1037年没)
- マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃) (1655年没)
- ドミンゴ・デ・シロス (1073年没)