伝記
プブリウス・リキニウス・クラッスス(紀元前97年の執政官)は、平民出身の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前97年に執政官、紀元前89年には監察官を務め、紀元前87年に没した。のちにポンペイウス、カエサルとともに第一回三頭政治を行うマルクス・リキニウス・クラッススの父である。
リキニウス氏族は共和政の最初期から護民官を出した有力な平民の氏族で、紀元前367年にはリキニウス・セクスティウス法が制定されている。クラッススの父はマルクスといい、紀元前127年または126年の法務官で、暗い性格から「笑わない男」を意味するアゲラストスの添え名を得ていたとされる。祖父はおそらく紀元前171年の執政官プブリウス・リキニウス・クラッススである。家の財政状況については意見が分かれる。生き残った唯一の息子マルクスが受け継いだのは300タレントにすぎず、貧しかったとする見方がある一方、遺産は内戦の間に減っただけだとする見方もある。
執政官就任以前の活動は一致した見解がない。贅沢を禁じる法案の提出者をクラッススとみて護民官時代の事績とする研究者もいれば、特定できないとする研究者もいる。紀元前100年のサトゥルニヌスの反乱の鎮圧に加わったかどうかも両説がある。確実な経歴の始まりは紀元前97年の執政官就任で、同僚はグナエウス・コルネリウス・レントゥルスだった。任期中に特別なことは起こらず、おそらく最も重要なのは人身犠牲を禁じた元老院令だった。任期の終了を待たず、クラッススは遠ヒスパニアの属州総督として赴いた。息子のマルクスを伴った赴任は紀元前93年まで延び、帰国後にルシタニアに対する勝利を祝って凱旋式を行った。軍事作戦の詳細は不明である。錫の産地への探検隊の派遣や植民都市カストラ・リキニアナの建設も、おそらくこの時期のクラッススに結びつけられている。この三年間に現地の人々と築いた関係のおかげで、息子マルクスは内戦の際に多くのクリエンテスから自分の軍を編成できた。
紀元前90年の同盟市戦争では執政官ルキウス・ユリウス・カエサルの副官の一人となり、同僚にはスッラ、ティトゥス・ディディウス、マルケッルスらがいた。しかしルカニアで同盟市軍のマルクス・ランポニウスに敗れ、フロンティヌスによれば、森に放たれた火のために兵8,000を失ってグルメントゥムへ退いた。それでも紀元前89年にはカエサルとともに監察官となった。二人は清めの儀式を行ったが、新市民をどの部族に組み入れるかが決まっていなかったため、国勢調査は実施しなかった。香料と輸入ワインの取引を制限する法も定めたが、経済危機で重要な物品の輸入を優先する狙いがあったらしい。
国内政治への姿勢は研究者の間で見解が分かれ、距離を置いていたとする見方が有力で、名誉は軍事的成功によるものとも評される。紀元前87年、キンナの法案をめぐって市街戦が起こると、クラッススはオクタウィウスの副官としてローマ防衛軍の司令官の一人となった。やがてローマはマリウスに委ねられ、クラッススはマリウスの恐怖政策の犠牲となった。最期については、息子と一緒に追われて捕らえられ処刑されたとも、自ら剣で自決したともいわれ、息子を殺してから自決したと伝える説もある。キケロも、捕縛を避けて自決したと三つの著作で述べており、その一つの演説は息子マルクスの前で行われたものだった。のちにマルクスはスッラと協力して父と兄の復讐を果たした。
同じ年に亡くなった人物
- アンティオコス10世 (紀元前87)
- ルキウス・コルネリウス・メルラ (紀元前87年の補充執政官) (紀元前87年没)
- Gauda (紀元前87)
- 武帝 (漢) (紀元前87年没)
- グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官) (紀元前87年没)
同じ地域に関係する人物
- カエサル・バロニウス (1607年没)
- ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官) (紀元前87年没)
- クレメンス9世 (ローマ教皇) (1669年没)
- エウトロピア (350年没)
- レナート・カステラーニ (1985年没)