伝記
武帝は、前漢の第七代皇帝である。景帝の九男として生まれ、紀元前141年に景帝が崩御すると十六歳で即位した。即位当初は、文帝の皇后であった竇太后が実権を握っていたが、太后が世を去ると自ら親政を始めた。文帝と景帝の時代はのちに文景の治と呼ばれ、国庫には銭も食料も大量に蓄えられていたと伝わる。武帝はこの蓄積を元手に、建国以来の課題であった匈奴の問題に着手した。匈奴との関係は、高祖劉邦が白登山の戦いで冒頓単于に大敗して以来、漢が毎年贈り物をする条件で和約を結ぶなど、おおむね匈奴が優勢な状態が続いていた。これに不満を抱いた武帝は、公孫弘を偵察に送り、張騫を西方の大月氏へ派遣して同盟を結ばせようとした。
紀元前133年、馬邑の土豪聶壱の策に乗って対匈奴戦争が始まる。馬邑が降るという偽りで軍臣単于をおびき出し殺そうとしたが、単于は異変に気づいて引き返し、策は失敗した。以後、匈奴は毎年のように漢の領土を荒らし、漢も本格的な戦争に入った。この戦いで活躍したのが名将の衛青と霍去病である。衛青は寵姫衛子夫の同母異父の弟で、奴隷身分の出身であったが、紀元前129年の出撃で敵の首級数百を挙げる戦果を得た。のち五度の出撃でオルドス地方を制圧し、匈奴の右賢王を敗走させて大将軍となった。甥の霍去病は紀元前121年に驃騎将軍となり、匈奴の渾邪王を降伏させ、その故地に新たに四郡が置かれた。しかし紀元前103年に戦闘が再開されると、すでに二人は亡く、李広利が主将となる。李陵が奮戦のすえ匈奴に降ると、これを弁護した司馬遷は宮刑に処された。紀元前91年の出撃では李広利自身が匈奴に投降し、この第二次の戦争は戦費と人命を費やしただけに終わったとされる。武帝はのちに輪台の詔を出し、外征を行わないこととした。
一方、張騫は匈奴に十余年抑留されながら大月氏にたどり着いたが、同盟は成らなかった。出発から十三年、約百人いた一行は、帰還時には従者一人を残すのみであった。それでも彼のもたらした西域の知識は貴重で、西域諸国も漢の存在を知って使者を送るようになり、のちにシルクロードと呼ばれる交易路が開かれた。南では、紀元前112年に路博徳らの遠征軍が南越を滅ぼして九郡を設け、東では紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼしてその地に漢四郡を置いた。こうして領土は大きく拡大した。
だが外征は財政を悪化させ、武帝は対応を迫られた。紀元前119年に始まる塩と鉄の専売制、桑弘羊の建議による均輸法と平準法、商人に重い財産税を課す算緡令などがそれである。専売の収入は大きく、財政の立て直しに貢献したが、商人には大打撃となった。紀元前113年には貨幣の鋳造を中央に集め、この時の五銖銭は唐代に開元通宝が作られるまで約七百年使われた。人材登用では察挙を行い、長安に太学を設けて五経博士を置いた。同じ年に元号を定めたとされ、これが元号の始まりである。かつて武帝の代に儒教が国教化されたとみなされたが、現在は否定されている。実際の政治を担ったのは、司馬遷が酷吏と呼んだ法家的な官僚であった。
諸侯王には、紀元前127年に推恩の令を出し、領地を王の男子全員に分けさせて封地を細分化し、中央集権を完成させた。一方で専売などで没落した商人が貧しい農民と結び、盗賊集団を作る社会不安も生じた。紀元前106年には全国に十三の州を置き、刺史に郡県を監察させた。武帝は神々の祭祀にも熱心で、紀元前133年に五畤を祀り、のちには天帝と対になる后土や、五帝の上位者である太一の祭祀も行った。武帝は紀元前87年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・コルネリウス・メルラ (紀元前87年の補充執政官) (紀元前87年没)
- グナエウス・ポンペイウス・ストラボ (紀元前87年没)
- Gauda (紀元前87)
- プブリウス・スルピキウス・ルフス (紀元前87)
- アンティオコス10世 (紀元前87)