伝記
ルキウス・コルネリウス・メルラは、紀元前130年頃に生まれ、紀元前87年に没した共和政ローマの政治家である。紀元前87年に補充執政官(スフェクト・コンスル)を務めた。エトルリアに起源を持つ貴族のコルネリウス氏族の出身で、この氏族はローマで最も強力で、多くの枝族を持っていた。メルラの家族名を持つ人物で最初に執政官になったのは紀元前193年のルキウス・コルネリウス・メルラである。ただし本項のメルラの父と祖父の個人名は記録がなく、氏族の他の人物との関係は分からない。
メルラは、時期は不明ながらユーピテル神殿の神官(フラーメン・ディアリス)を務めていた。ユーピテルの最高神官にあたる職で、他の神官と違い、常に神官の務めに身を捧げていたという。この神官には多くの制約があり、常に象徴である帽子をかぶって歩かねばならず、3日以上続けて家の外で夜を過ごすことも、馬に乗ることもできなかった。さらに、武装した兵を見ること、死体に触れること、火葬の場に入ることも禁じられていたとされる。こうした制限のため、軍事・政治の経歴を築くことは事実上できなかった。それでも執政官就任年とウィッリウス法の規定から、遅くとも紀元前90年には法務官を務めたはずだと考えられている。
紀元前87年、元老院の支持を得たグナエウス・オクタウィウスと、同じく執政官のキンナの支持者の間でローマに市街戦が起きた。敗れたキンナが脱出すると、元老院は彼を解任し、メルラが補充執政官に選ばれた。この指名は、神官の制約を考えると意外なもので、メルラは辞退を重ねたともいわれる。この指名は、占いによって安心を得ようとしていたオクタウィウスに、強い宗教的な支えを与えたとされる。当時は門閥派と民衆派の対立が続いていたが、メルラはどちらの派閥にも属していなかった。やがてキンナはマリウスと同盟し、セルトリウスも加わった軍勢でローマを包囲し、オクタウィウスとメルラは濠を掘り、城壁を修理して防御兵器を据えた。しかし疫病と飢餓のため、元老院はマリウスへの降伏を決め、メルラも執政官を辞任した。
ローマに入ったキンナとマリウスは、有力者への報復を始めた。初日から多くの貴族が殺されたが、メルラはその中に含まれていなかった。代わりに二人はメルラに召喚状を送った。マリウス派の味方を殺害した簒奪者だという偽りの告発を受けたともいわれる。メルラは自分の運命を悟り、静脈を切って自決した。傍らの石版には、神官の象徴である帽子を脱いでから切ったと記されていた。カピトリウムのユーピテル神殿で、祭壇と神像に血をふりかけ、神々にキンナとその一派を呪うよう求めたとも伝わる。ウェッレイウス・パテルクルスによれば、メルラは失血で死に向かう中でキンナとその支持者を呪い、こうして国家への奉仕に満ちた生涯を終えた。
メルラの死後、ユーピテル神官の座は長く空席となり、75年間埋まらなかったとされる。マリウスとキンナは呪いを取り除くため、若いカエサルをすぐにこの神官にしようとしたという説がある。いずれにしても、カエサルがこの神官になることはなかった。マリウスが17歳の甥カエサルを任じたものの、翌年スッラに取り消されたとも伝わる。この神官の座は紀元前11年、アウグストゥスの時代まで空いたままだったともいわれる。メルラの自決は、神官でありながら神殿を血で汚し、自らと原因をつくった者たちに神の呪いを招いたものとして、ローマ人に強い衝撃を与えたという。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス (紀元前87年没)
- プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官) (紀元前87年没)
- ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官) (紀元前87年没)
- グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官) (紀元前87年没)
- プブリウス・スルピキウス・ルフス (紀元前87)
同じ地域に関係する人物
- ルキウス・コエリウス・アンティパテル (紀元前119)
- オンケロス (120年没)
- エレウテルス (ローマ教皇) (189年没)
- マリオ・プラーツ (1982年没)
- マルクス・マンリウス・カピトリヌス (紀元前380年代没)