伝記
ソルコクタニ・ベキは、チンギス・カンの四男トルイの正妃で、のちの皇帝たちの母となった女性である。ケレイト部族の出身で、キリスト教徒であった。1199年に生まれたとされる。父のジャカ・ガンボは、ケレイトのカンであったオン・カン(トグリル)の弟で、長姉イバカ・ベキはチンギス・カンの妃となったため、ソルコクタニはチンギス・カンの義妹にもあたる。父は兄やその子イルカ・セングンとは不仲で、チンギス・カンと仲が良かった。1204年に兄と甥がチンギス・カンに敗れて死んだのちも、娘をチンギス・カンやその子ジョチ、トルイに嫁がせて厚遇を得た。まだ十代だったソルコクタニは、チンギス・カンからトルイに与えられた。ジャカはケレイトが後に反乱を起こした際、将軍ジュルチェデイに殺されたともいう。
ソルコクタニはトルイと仲が良く、4人の男児に恵まれた。長男モンケ、四男クビライ、五男フレグ、六男アリクブケである。当時のモンゴルの女性は、男たちが出払うことが多く家を守る責任があったため、他の文化より多くの権利を持ち、家の中で大きな権威を持った。彼女は自分では読み書きができなかったが、広大な国を治めるには読み書きが重要だと考え、息子たちにそれぞれ地方ごとの別の言葉を学ばせた。ほかの宗教にも敬意を払い、ブハラのマドラサの建設費を出し、キリスト教徒にもイスラム教徒にも施しをした。
1232年、41歳だった夫トルイが急死すると、長男のモンケにトルイ家を継がせ、自らはその後見役のような立場になった。第2代皇帝オゴデイは、トルイの領地を扱う権限を長く彼女に与えた。オゴデイは彼女の領国を自分の領国と結びつけようとして求婚したが、断られた。続いて息子のグユクとの再婚を提案したが、四人の息子の世話が要るとして、これも断った。1236年、金への征服が終わると、河北の一部を領地に求めた。オゴデイはためらったが、夫が征服した土地は自分のものだと迫って従わせた。ただしオゴデイも自らの領地を広げ、トルイの領地の一部を奪い、ソルコクタニの兵の大半を取り上げた。
1241年にオゴデイが亡くなると、妃のドレゲネが摂政となり、1246年にクリルタイで、子のグユクを皇帝に即位させた。ところが、ジョチ家の当主バトゥや、モンケとその母ソルコクタニらはこの即位に不満を持ち、ソルコクタニはバトゥとひそかに連絡を取り合って密約を交わしたという。1248年3月、グユクが急死した。グユクが遠征に出ているのを警戒するようバトゥに知らせ、それを受けたバトゥがグユクを暗殺したという説もある。グユクの死後、ソルコクタニはバトゥと協力して、オゴデイ家の政権を否定し、長男モンケを1251年までに第4代皇帝に即位させた。
間もなく病に倒れ、1252年3月1日、モンケ、クビライ、フレグらによる遠征が始まる中で亡くなった。ネストリウス派のキリスト教徒であったため、遺体は甘州の教会に安置された。1266年、クビライによって荘聖皇后と追諡された。若い息子たちを育て上げ、そのいずれもが王朝の帝王となったことから、賢夫人と評する声もある。『集史』は、彼女を、王国の4つの支柱であるチンギス・カンの4人の息子のような、尊厳ある4人の息子の母と称えている。
同じ年に亡くなった人物
- ズディスラワ・ベルカ (1252年没)
- フェルナンド3世 (カスティーリャ王) (1252年没)
- ハインリヒ1世 (アンハルト伯) (1252年没)
- オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1252年没)
- カタリーナ (1252年没)
同じ地域に関係する人物
- 葉群 (1971年没)
- アリクブケ (1266年没)
- オゴデイ (1241年没)
- グユク (1248年没)
- バイジュ (モンゴル部) (1259年没)