伝記
マリー・ド・ブラバンは、バイエルン公ルートヴィヒ2世の最初の妃で、1256年に姦通の疑いで処刑された女性である。ドイツ語ではマリア・フォン・ブラバントと呼ばれる。1226年に、ブラバント公アンリ2世と、最初の妃マリア・フォン・ホーエンシュタウフェンの間に生まれた。母マリアはローマ王フィリップの娘である。アンリ2世の6人の子のうち5番目で、兄弟姉妹には、のちのブラバント公アンリ3世や、のちにアルトワ伯妃となるマティルドがいた。母の死後、父はゾフィー・フォン・テューリンゲンと再婚し、この結婚から生まれた異母弟の1人がヘッセン方伯ハインリヒ1世である。
1254年8月2日、マリーはバイエルン公ルートヴィヒ2世と結婚した。ルートヴィヒにとって、3人いた妻の最初の1人である。結婚生活は2年間で、子は生まれなかった。ルートヴィヒは当時アウクスブルクの司教と戦っていた。ある年代記によると、マリーの聴罪司祭は司教と通じており、マリーを説得して、包囲をやめて帰ってほしいと夫に手紙を書かせた。うまくいかなかったので、マリーは夫の家臣の1人にも手紙を書いたが、陣を離れていた家臣のかわりにルートヴィヒがそれを受け取った。ルートヴィヒはマリー自身の筆跡だと認め、妻が不貞をはたらいていると思い込んだ。二通の手紙が取り違えられたとする説明もある。
1256年1月18日、マリーはドナウヴェルトで、夫によって首を切られた。年代記は、この処刑が公爵の命令により、姦通の罪でドナウヴェルトのマンゴルトシュタイン城で行われたと伝えるにとどまる。しかし、のちにルートヴィヒが有効な証拠を何も示していなかったことが分かり、実際には姦通の証拠はなかったとされる。ルートヴィヒは悔いて教皇アレクサンデル4世に相談し、十字軍に行くか修道院を建てるかを選ぶよう言われた。ルートヴィヒは後者を選び、ミュンヘン近郊にシトー会のフュルステンフェルト修道院を建てた。のちに彼は、さらに二度結婚している。マリーは、ドナウヴェルトの聖十字架教会にある墓所に葬られ、教会には二人の侍女を悼む銘板もある。
時がたつと、ルートヴィヒの行いをめぐって多くの民間伝承が生まれたが、その多くは彼の死のずっとあとに書かれた。バラッドの作者たちは、この話を狂乱の殺人の物語に仕立て上げた。ルートヴィヒは馬で5日間夜通し駆けて城に戻って妻を殺し、まちがった手紙を持ってきた使者を剣で刺し、城代と女官も刺して、妻の侍女を胸壁から投げ落としたという。マリーは刺されたとも、首を切られたともされる。この悲劇は旅の芸人によって歌や詩となって伝えられた。マリーは、オランダの民間伝承に出てくる伝説のブラバントのジュヌヴィエーヴのもとになった人物ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ミハイル2世・アセン (1256年没)
- ウィレム2世 (ホラント伯) (1256年没)
- バトゥ (1256年没)
- マファルダ・デ・ポルトゥガル (1256年没)
- カリマン2世 (1256年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲルト・ミュラー (2021年没)
- テオドール・ロイス (1923年没)
- ユリウス・シュトライヒャー (1946年没)
- エンゲルベルト (ケルンテン公) (1141年没)
- ベッティーナ・ハイネン–アイエヒ (2020年没)