HISTORICAL PERSON · 1256年没

バトゥ

ジョチ・ウルスの初代ハン。父ジョチの死後に家督を継ぎ、ヴォルガ河畔を領有した。遠征軍では最長老として総司令官に任命された。

生涯
1256年没
死亡地
ジョチ・ウルス(アストラハン州 / サライ)
出生地
モンゴル国(モンゴル国)
出典
世界地図
ジョチ・ウルス(アストラハン州)

伝記

バトゥは、モンゴル帝国のジョチ・ウルスの2代目当主で、初代のハンとされる人物である(在位1225年〜1256年)。1207年に、チンギス・カンの長男ジョチの次男として生まれ、1256年に没した。漢語では抜都、巴禿などと表記される。

1225年にジョチが亡くなると、バトゥはジョチ家の当主を継ぎ、兄のオルダと父の軍隊を分け合った。オルダはシル川の北方の地方を領有して「左翼の諸侯王」と呼ばれ、バトゥはサライを中心にヴォルガ河畔を領有した。オルダ・ウルスは代々バトゥ・ウルスを宗主と認め、勅令の冒頭にバトゥの名を掲げたという。1227年にチンギス・カンが没すると、遺言どおりに遺産が分けられ、大部分の1万1千人を四男のトルイ家が相続し、ジョチ家には4千人が与えられた。2年後、長期にわたる空位の弊害が指摘され、1229年春に、オルダ、バトゥ、ベルケらジョチの諸子をはじめとする諸王侯がケルレン河畔に集まった。クリルタイでは耶律楚材がオゴデイを強く推し、トルイも賛同したため、一同はオゴデイに票を投じた。オゴデイは固辞して40日が過ぎたが、諸侯の懇請を受けて、同年9月に即位した。

1235年、オゴデイはカラコルムでクリルタイを招集し、南宋と高麗への遠征軍に加えて、バトゥを総司令官とする西方遠征軍を決めた。この遠征軍は、帝室の4つの王家がそれぞれの割り当てに応じて出した兵で構成され、ジョチ家からはバトゥ、オルダ、シバン、タングト、チャガタイ家からはバイダル、ブリ、オゴデイ家からはグユク、カダアン・オグル、クルゲン、トルイ家からはモンケ、ボチュクらが加わった。このクリルタイでは、遊牧民から百頭につき1頭、農民から収穫の10分の1を税として集めて貧民の救済に充てることや、帝国全土の駅伝(ジャムチ)の設置も決められた。副司令官には、歴戦の将スブタイが任じられた。1236年春に始まった遠征では、ヴォルガ・ブルガールの首都ブルガルを略奪して征服を完了し、1237年春にキプチャク族を攻めて降伏させた。森に隠れてモンゴル軍を悩ませたキプチャクの首領バチュマンは、ヴォルガ川の中州で奇襲されて捕らえられ、モンケの命で処刑されたという。周辺のモルドヴィン人やチェルケス人なども征服した。1237年11月、リャザン公らに帰順と財産の10分の1の提供を勧告し、断られるとリャザンを7日間攻めて陥落させ、住民を虐殺して略奪した。続いてコロムナ、モスクワを陥落させ、1238年2月にウラジーミルとスーズダリを落とし、3月にはウラジーミル大公ユーリー2世を戦死させた。その後は、ノヴゴロドへ向かうのを中止して、南へ転じ、コゼリスクを破壊してコーカサス北部へ向かった。

コーカサス北部ではチェルケス人などを征服し、1238年冬から翌年春にかけてマンガスやデルベントを攻略した。1239年秋には、グユクとモンケがオゴデイの命令で帰還し、その2年後に彼らがモンゴル高原に着くころには、オゴデイは崩御していた。1240年11月19日、遠征軍はキエフを大部分破壊した。ガーリチ公国も略奪され、その後ポーランドに侵入し、1241年4月のレグニツァの戦いでは、バイダルの軍がポーランド軍を破り、ヘンリク2世を討った。バトゥは自らハンガリー王ベーラ4世に降伏勧告書を送り、ロシア門から侵入した。ハンガリー国内では、コチャン率いるクマン人がモンゴルを呼び寄せたという憶測が広がり、コチャンは殺された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物