HISTORICAL PERSON · 1257年没

サルタク

ジョチ・ウルス第3代当主でバトゥの長男。モンケの命で後継者となったが帰還の旅の途上で没し、キリスト教徒との噂からルイ9世が修道士を派遣していた。

生涯
1257年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

サルタクは、ジョチ・ウルスの第3代当主である。『元史』では撒里答大王と記される。バトゥの長男で、母は正妃ボラクチン・ハトゥンといい、父の指名を受けた後継者だった。バトゥの存命中から政務に加わり、ドン川とヴォルガ川のあいだの地域を任されていた。ロシア人とキリスト教徒の扱いも任され、ロシアの諸公に、ハンの宮廷に出頭して統治の承認を受けさせる役目も負っていた。ロシアの歴史家タチーシチェフは、アレクサンドル・ネフスキーが、弟が自分から大公の座を奪い、貢ぎ物を満足に納めていないとサルタクに訴え、ウラジーミルに戻って大公位を得たと伝えている。

ヨーロッパや中東では、サルタクがキリスト教を信じているという噂があった。1253年、フランス王ルイ9世はこれを確かめ、十字軍への支援を求めるため、ルブルクのギヨームを送った。翌1254年8月29日には、教皇インノケンティウス4世が、サルタクが洗礼を受けたとの知らせを聞いて、祝いの書簡を送った。ギヨームによれば、サルタクのオルドはドン川の中流域にあり、ヴォルガ川から3日行程の距離にあった。サルタクには6人の夫人がおり、一緒にいた長男にも2、3人の夫人がついていて、オルドは豪華だったという。サルタクはキリスト教徒だったが、シャーマンの習慣も続けていたとされる。

1256年春、皇帝モンケが第2回のクリルタイをオルメクトの地で開き、サルタクはジョチ・ウルスの代表として派遣された。ところが開催地に着く直前にバトゥの訃報が届き、モンケはサルタクを勅命でバトゥの後継者に任じた。短い在位のうちに、サルタクは領内の道沿いに新しく築いた集落にネストリウス派の教会を建てさせたともいう。サルタクは多くの贈り物を受けて帰ることを許されたが、帰る旅の途中で没した。没年は1257年とされるが、バトゥの死の翌年の1256年とする説もある。モンケはサルタクの后たちや子らに使者を送って慰め、改めて彼の末の弟、あるいは息子のウラクチにジョチ・ウルスを継がせた。ウラクチも数か月後に夭折し、バトゥの弟ベルケがハンの位を継いだ。サルタクがベルケらに毒殺されたのではないかともいわれるが、確かなことは分からない。

ウラクチの出自には食い違いがあり、サルタクの息子とも、バトゥの末子でサルタクの弟ともいわれる。ウラクチの生母はバトゥの妻で、サルタクが父の死後にレビラト婚で彼女を娶ったため、息子とも弟とも伝わるようになったのではないかと推測されている。娘にフェオドラがいて、1257年にベロオゼロ公グレブに嫁いだとされる。

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