HISTORICAL PERSON · 1935年没

コンスタンチン・ツィオルコフスキー

ロシア帝国生まれのロケット研究者。1903年の論文で宇宙旅行の可能性を示し、「ツィオルコフスキーの公式」を発表して「宇宙旅行の父」と呼ばれる。

生涯
1935年没
死亡地
ロシア連邦(カルーガ州 / カルーガ)
出生地
ロシア連邦(イジェフスク (リャザン州))
出典
世界地図
ロシア連邦(カルーガ州)

伝記

コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーは、1857年9月17日にロシア帝国のリャザン州イジェフスクで生まれたロケット研究者・物理学者・数学者であり、SF作家でもある。父エドヴァルドはポーランドの革命運動に携わった愛国者で、母マリア・ユマシェワはヴォルガ・タタール人だった。父がポーランド人であったため、本来の姓はポーランド語で「ツィオウコフスキ」だが、ロシアで生まれたことからロシア風に発音されるようになった。自伝では、一族の系譜がコサックのセヴェリン・ナリヴァイコにさかのぼると主張し、自分には革命家の血が流れていて、障害がなければ革命家になっていただろうと語っている。

1867年、10歳のときに猩紅熱にかかって難聴になり、1870年、13歳のころに母が他界した。家計が苦しいことや難聴のため、小学校にも中学校にも通わなかった。それでも自分の障害を生涯にわたって苦にすることはなく、前向きにとらえたとされる。初恋の女性に「私は偉大な人間だ」と言い放ったという逸話も残る。1873年、16歳でモスクワに出て、図書館の蔵書を読みふけった。好物の黒パンをかじりながら、独学で数学や物理学、天文学を学んだという。1876年に数学の教師の資格を取り、翌年の1877年から、ボロフスクや故郷のカルーガの中学校で教えた。教師として働くかたわら、エッセイ『月の上で』(1893年)や『地球と宇宙に関する幻想』(1895年)を書いた。

自宅の地下室を実験室にして、圧縮ガスを使った噴射実験などを行い、たびたびモスクワやサンクトペテルブルクの学会に論文を送ったが、あまり相手にされなかった。化学者のメンデレーエフは評価していたが、「この理論(気体の理論)は昔に提唱されている」と返答するなど、必ずしも絶賛したわけではなかった。1897年には、噴射ガスの速度が大きく、点火時と燃焼終了時の質量比が大きいほど、より大きな速度を得られるという「ツィオルコフスキーの公式」を発表し、液体燃料が固体燃料よりはるかに大きな排気速度を出せることも示した。1903年には独自のロケット理論をまとめた代表的な論文『反作用利用装置による宇宙探検』を完成させ、科学雑誌『モスクワ科学評論』に載った。この中で、宇宙旅行や軌道エレベーターの可能性と、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型のロケットの設計図を示した。人工衛星や宇宙船の示唆、多段式ロケットの考案もあり、宇宙旅行の父と呼ばれる。章の題名にもなっている「今日の不可能は、明日可能になる」は、先端技術に対する姿勢を表す言葉として知られる。「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう」という有名な言葉は、1911年に知人に出した手紙に含まれていた。

帝政ロシアの時代には不遇だったが、1917年のロシア革命を機に評価されるようになり、1919年にはアカデミーの会員となって、ソビエト政府のもとでロケット研究に専念した。生涯の大半をカルーガで孤独に暮らしていたため、存命中は業績がほとんど評価されなかった。1935年9月19日に78歳で亡くなり、国葬が営まれた。亡くなる直前は、ブースターの可能性を論じていたとされる。のちにセルゲイ・コロリョフらによって評価され、1957年10月4日に打ち上げられた世界初の人工衛星スプートニク1号は、生誕100年と国際地球観測年に合わせたものである。

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