HISTORICAL PERSON · 1935年没

ポール・デュカス

フランスの作曲家。ユダヤ人の家庭に生まれ、管弦楽曲で注目された。評論も発表し、パリ音楽院で教えた。

生涯
1935年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(1区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ポール・アブラアム・デュカスは、1865年10月1日にパリのユダヤ人の家庭に、銀行家の父ジュールとピアニストだった母ウジェニーの次男として生まれたフランスの作曲家である。母は息子が5歳のときにピアノのレッスンを受けさせたが、第三子マルグリットを産んだ後に世を去った。ポール自身は14歳になるまで目立った音楽の才能を示さなかったという。1879年に独学で音楽の勉強を始め、1881年の終わり、16歳でパリ音楽院に入学した。ジョルジュ・マティアスにピアノを、テオドール・デュボワに和声法を、エルネスト・ギローに作曲を学び、ここで同じ学生だったドビュッシーと出会って、生涯続く友情を結んだ。1886年に対位法とフーガで一等を得て、1888年にはカンタータ『ヴェレダ』でローマ大賞の第二等を含むいくつかの賞を得たが、翌年は入賞できなかった。失望したデュカスは1889年に音楽院を去り、作曲家の道を捨ててルーアンで従軍した。ところが同地の軍楽隊のバンドマスターと知り合ったことが契機となり、除隊後に作曲家および音楽評論家として歩みはじめた。

評論家としては『週刊批評』『音楽批評』『芸術新報』などの雑誌で活躍し、400を超える評論を書いた。時には自作にも厳しい批評を加えた。もともと完璧主義者だったが、評論の執筆でそれはいっそう徹底され、のちに自作の多くを破棄することにつながった。作曲家としては、コルネイユの悲劇に基づく序曲『ポリュークト』が1892年にコンセール・ラムルーで初演され、本格的なデビューを果たした。続いて自分の台本によるオペラに着手したが、1幕のみで未完に終わった。唯一の交響曲『交響曲ハ長調』(1895年-1896年)では、ドイツ音楽の構造性の中に印象派に代表されるモダニズムを溶け込ませることに成功し、次いで最も有名な作品である交響的スケルツォ『魔法使いの弟子』(1897年)を生んだ。

1900年以降は、大規模なピアノ作品『ピアノソナタ変ホ短調』(1901年)や『ラモーの主題による変奏曲、間奏曲と終曲』(1903年)を書いた。ソナタは、フランスのピアノ音楽史上最も野心的な作品ともいわれる。1899年には2作目のオペラ『アリアーヌと青ひげ』に取りかかり、7年かけて完成させて、1907年に初演され、シェーンベルクら同時代の作曲家の関心を集めた。この作品はメーテルリンクの戯曲を用いたドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』と音楽的に似た点があるとされる。最後の主要な作品は、ロシア・バレエ団から依頼されたバレエ『ラ・ペリ』(1912年)だった。

1916年にポルトガル系フランス人のシュザンヌ・ペレイアと結婚し、1919年に娘が生まれた。晩年は教師としても知られ、パリ音楽院の管弦楽科教授を経て、ヴィドールの後任として作曲科の教授となり、エコール・ノルマルでも教えた。弟子にはメシアン、デュリュフレ、ポンセ、ロドリーゴらがいる。メシアンに与えた助言「鳥の声を聞きたまえ」は、その後のメシアンの作曲の根本的な言語の一つとなった。ただし、本人はそれ以前から鳥の声に注目していたようである。1918年に亡くなったドビュッシーへの追憶として、1920年に『牧神の遥かな嘆き』を書いた。完璧主義のあまり1920年代には大半の作品を破棄し、今日残るのは20曲ほどとされる。1934年にフランス学士院会員に選ばれ、翌1935年5月17日、69歳でパリにて亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。

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