伝記
フェデリコ・ガルシーア・ロルカは、1898年6月5日、スペイン南部グラナダ県の村の農場主の家に長男として生まれた詩人・劇作家である。「二七年世代」の一人に数えられる。生後二か月で小児麻痺にかかり、その後は軽い歩行障害に悩まされた。1909年にイエスの聖心学院に入り、家庭ではヴェルディの弟子だったアントニオ・セグーラに音楽を習った。1915年にグラナダ大学の法学部と文学部に入学したが、父は息子が弁護士になることを望んでいた。
1918年に処女著作『印象と風景』を自費出版したが、反響はまったくなかった。1920年にはマドリードの学生寮に住み、詩の朗読で名を知られるようになったものの、同年に初演された戯曲『蝶の呪い』は失敗に終わる。1921年の詩集『詩の本』は新聞で批評されるなど、評判は悪くなかった。1923年に法律の学士号を取り、この頃、画家サルバドール・ダリと出会った。ダリのほかに映画監督ルイス・ブニュエルらとも親交があり、ダリには詩集を捧げ、その妹とも親しかった。
1927年に詩集『歌集』を出し、マドリードのゴヤ劇場で最初の戯曲『マリアナ・ピネーダ』が初演された。この年はバルセロナで素描展も開いている。1928年の『ジプシー歌集』は文壇から絶賛されて名声が一気に高まった。アンダルシアのジプシーを詠んだ作品だが、アンダルシア人からは実像ではないと批判され、作家ボルヘスは彼を「プロのアンダルシア人」と評した。1929年にアメリカ合衆国を訪れ、コロンビア大学に短期留学をした。ウォール街に強い嫌悪を覚えて、1930年にはキューバへ渡り、現地の芸術家と交流してグラナダに戻った。この頃スペインではプリモ・デ・リベーラ政権が崩壊し、第二共和制が成立した。
1932年には大学生劇団バラッカを設立し、古典劇の普及に努めた。1933年に『血の婚礼』が初演されて大成功を収め、10月にはアルゼンチンを訪れて熱狂的に迎えられた。1934年に『イェルマ』を初演し、1935年には、牛に突かれた傷がもとで亡くなった闘牛士を悼む詩集『イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀悼歌』を出版した。
1936年、内乱の雰囲気が高まるなかでマドリードから故郷へ戻った。数日後にモロッコでフランコが本土への侵攻を指揮して、スペイン内戦が勃発する。ロルカは友人のファランヘ党員の家に逃げ込んだが、8月16日、友人の留守中に逮捕され、県庁舎に連行された。8月19日の早朝、グラナダ近郊で三人の男たちとともに銃殺された。38歳だった。自由を叫んで毅然と死んだという伝説があるが、処刑に居合わせたタクシー運転手の老人は、後年、ロルカは死の恐怖に怯えて命乞いをしていたと語ったという。親友の死の報を受けたダリは、ただひと言「オレー!」と叫んだと伝えられる。
フランコ政権のもとで作品は発禁となり、1975年にフランコが没するまで、スペインでロルカを自由に語ることはできなかった。そのため上演や研究はフランスなどヨーロッパで先に進んだ。生きていればノーベル文学賞の受賞もあり得たといわれる。日本では1930年に詩が訳され、戦後は劇作品が多く紹介・上演されて、三島由紀夫も訳書を通じて激賞した。2006年には、グラナダ空港がその名を冠した空港名に改められた。
同じ年に亡くなった人物
- イワン・フォミン (1936年没)
- ウィリアム・アダムソン (1936年没)
- カール・シュトゥンプ (1936年没)
- イヴァン・スミルノフ (1936年没)
- ブエナヴェントゥラ・ドゥルティ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ナスル (ナスル朝) (1322年没)
- ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ (1515年没)
- ムハンマド3世 (ナスル朝) (1314年没)
- Badis ben Habus (1073年没)
- ムハンマド2世 (ナスル朝) (1302年没)