伝記
ナスルは、イベリア半島南部のグラナダを都としたナスル朝の第4代君主である。一二八七年十一月一日、おそらくグラナダのアルハンブラ宮殿で生まれた。父は第2代のスルターンであるムハンマド2世、母はムハンマド2世の二番目の妻で、解放奴隷のキリスト教徒であったシャムス・アッ=ドゥハーである。父は学識と教養にすぐれたイスラーム法学者として知られ、子供たちに知的な活動を勧めた。異母兄のムハンマドは詩作に打ち込み、異母姉のファーティマは学者の伝記と著作の目録を学び、ナスルは天文学を熱心に学んだ。ずっと年上の兄は父の存命中に後継者に指名され、一三〇二年に父が没するとムハンマド3世としてスルターンの位に就いた。
ムハンマド3世の治世の末期、ナスル朝は自国より大きな三つの近隣国、すなわちカスティーリャ王国、アラゴン王国、北アフリカのマリーン朝の同盟を相手に、戦争になりかねない状況に陥っていた。そのうえ宰相の浪費が人々の怒りを買っていた。一三〇九年三月十四日、宰相の政敵であったアティーク・ブン・アル=マウルをはじめとする貴族たちが宮廷クーデターを起こし、ムハンマド3世に退位を迫ってナスルを擁立した。ムハンマド3世はアルムニェーカルの私有地に引きこもり、宰相はアティークに殺されて、遺体は暴徒に辱められた。ナスルはアティークを新しい宰相に任じた。
即位したとき、ナスル朝には同盟国がなく、三つの敵が開戦の準備を進めていた。争いの焦点のひとつは、先代のころにナスル朝が占領した北アフリカの港町セウタだった。一三〇九年七月二十一日、ナスル朝の統治に不満だったセウタの民衆が総督を倒し、マリーン朝に都市を明け渡した。ナスルは四月からすでにマリーン朝の宮廷に使者を送っており、同年九月下旬に和平を結んで、セウタの支配を認めたうえ、アルヘシラスとロンダも割譲した。一方、ジブラルタルはカスティーリャとアラゴンの連合軍に包囲されて九月十二日に降伏し、住民のうち千百二十五人はキリスト教徒の支配を望まず北アフリカへ去った。アラゴン王ジャウマ2世が八月に包囲したアルメリアは持ちこたえ、十二月末に停戦が成り、アラゴン軍は一三一〇年一月に撤退した。
一三一〇年五月二十六日、ナスルはカスティーリャ王フェルナンド4世と七年間の平和条約を結んだ。賠償金と毎年の貢納金を支払い、いくつかの国境の町を明け渡し、カスティーリャの臣下として、求めに応じて年に最大三か月まで自前の兵力を出すことを約束した。アラゴンにも賠償金を支払うことに同意した。その後、マリーン朝の新しいスルターンがイベリア半島の領土の拡大を望んだが、一三一一年に艦隊をカスティーリャの艦隊に破られ、アルヘシラスとロンダをナスル朝に返して撤退した。
損失を抑えて戦争を終わらせたにもかかわらず、ナスルはキリスト教徒に好意的ではないかと疑われた。天文学に傾倒して君主の務めを怠っているという非難も受け、宮廷での評判を落とした。一三一一年に義兄のアブー・サイードが反乱を起こし、いったんは撃退したが、その息子のイスマーイール、のちのイスマーイール1世が二度目の侵攻でアルハンブラ宮殿を占領し、ナスルは一三一四年二月八日に退位を余儀なくされた。ナスルはイスマーイール1世から東部のグアディクスの統治を許されたが、「グアディクスの王」を名乗って君主の位を主張し、カスティーリャの支援を受けて奪い返そうとした。しかし一三一九年にイスマーイール1世がカスティーリャ軍を破って停戦が成立し、支援は打ち切られた。ナスルは一三二二年、子を残さないままグアディクスで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
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- ロベール3世 (フランドル伯) (1322年没)
- マッテーオ1世・ヴィスコンティ (1322年)
同じ地域に関係する人物
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- ムハンマド1世 (ナスル朝) (1273年没)
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- ミゲル・ダ・パス (1500年没)
- ムハンマド7世 (ナスル朝) (1408年没)