伝記
アレクサンドル・コンスタンティノヴィチ・グラズノフは、1865年8月10日、サンクトペテルブルクの富裕な出版業者の家に生まれた作曲家・音楽教師・指揮者である。父はプーシキンの『エヴゲーニー・オネーギン』の版元だった。9歳でピアノを、13歳で作曲を学び始めた。ロシア五人組のかつての指導者バラキレフがその才能を認め、14、15歳の少年の作品をリムスキー=コルサコフに見せた。リムスキー=コルサコフは、あどけない手法ながら才能は疑いようもなく明らかだったと回想している。バラキレフは1879年12月に少年を彼に紹介した。
リムスキー=コルサコフは自分を個人教師と考えていたが、「彼の音楽的な成長は、日ごとにではなく、文字通り時間ごとに進んだ」と記し、1881年の春までには弟子ではなく年少の同僚とみなすようになった。同じ春にムソルグスキーが亡くなっていた。16歳のグラズノフの《交響曲第1番「スラブ風」》の初演はリムスキー=コルサコフが指揮し、ボロディンとスターソフが作品と作曲者を激賞した。
賛美者のなかで重要だったのが、富裕な材木商人でアマチュア音楽家のミトロファン・ベリャーエフである。リャードフを通じてグラズノフの音楽を知ると、国民楽派の作曲家全員への関心を広げた。1884年にはグラズノフを西欧旅行に連れ出し、ヴァイマルでリストに会わせ、同地で《スラブ風》交響曲を上演してもらっている。1885年にはライプツィヒに自前の楽譜出版社を創設して、グラズノフ、リャードフ、リムスキー=コルサコフ、ボロディンらの作品を自費で出版した。出版社の顧問にグラズノフも就き、ベリャーエフを囲む作曲家集団は「ベリャーエフ・サークル」と呼ばれた。
国際的な称賛を受ける一方、1890年から1891年にかけて創作上の行き詰まりを経験したが、そこを抜けて成熟期に入り、1890年代に3つの交響曲、2つの弦楽四重奏曲、バレエ音楽《ライモンダ》と《四季》を完成させた。1907年5月にパリで指揮し、オックスフォード大学とケンブリッジ大学から名誉音楽博士を贈られた。指揮者としては1888年にデビューし、1897年にはラフマニノフの《交響曲第1番》の悲惨な初演を振ったが、グラズノフは十分なリハーサルができず、ラフマニノフ未亡人は顔が真っ赤で酔っているように見えたと語っている。ただ、指揮の才能がないと承知しつつも指揮が大好きで、自作をたびたび振った。
1899年にペテルブルク音楽院の教授となり、1905年に院長に選ばれ、1917年まで務めた。カリキュラムの改善や規律の向上に努め、オペラの練習場と学生オーケストラも設立している。苦学生の暮らしに父親のような関心を寄せ、学期末には何百人もの学生を試問して推薦状を書き、困窮した学生には自分の収入を分け与えた。ユダヤ人音楽家が首都に住めるよう、当局に掛け合ったともいう。ボリシェヴィキ体制ともうまく付き合ったが、保守的な姿勢は音楽院の内部で非難された。1928年、ウィーンでのシューベルト没後100年の行事に出席したのを機に国外へ出て、二度とソ連に戻らなかった。不在は「体調不良」のせいだと言い張り、ソ連での尊厳を保った。
パリに定住し、1929年に《四季》全曲を電気録音で遺した。同年、64歳で10歳年下のオリガと結婚した。ボロディンの《イーゴリ公》などの補筆も行い、序曲を記憶から再構成した。1936年3月21日、パリで没した。その訃報は多くの人を驚かせ、遺体はのち1972年にレニングラードの墓地へ改葬された。
同じ年に亡くなった人物
- フロイド・B・オルソン (1936年没)
- Ahmet Tevfik Okday (1936年没)
- レフ・カーメネフ (1936年没)
- ウィリアム・ミッチェル (1936年没)
- イワン・パブロフ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ1世 (ブルボン公) (1341年没)
- ミシェル・アダンソン (1806年没)
- バンジャマン・ペレ (1959年没)
- アルフレッド・ブリュノー (1934年没)
- ウラジミール・ジャンケレヴィッチ (1985年没)