伝記
コッラディーノは、ホーエンシュタウフェン家最後の正統な後継者で、シチリア王、エルサレム王である。コンラディンとも呼ばれる。1252年3月25日、バイエルンのランツフート近くのヴォルフシュタイン城で生まれた。父はシチリア王コッラード(ローマ王コンラート4世)、母はバイエルン公でライン宮中伯のオットー2世の娘エリーザベトである。1254年に父が没すると、コッラディーノはシチリア王国とエルサレム王国、そしてシュヴァーベン公領を継いだが、ローマ王位は継げず、神聖ローマ帝国は大空位時代に入った。幼かったため、母方の叔父であるバイエルン公ルートヴィヒ2世らの保護のもとに置かれ、バーデンのフリードリヒとともにバイエルンの宮廷で育った。父は遺言で、息子を教皇インノケンティウス4世の庇護に託し、教皇はこれを受け入れた。
1256年にホラント伯ウィレムが没すると、翌年にコーンウォール伯リチャードとカスティーリャ王アルフォンソが、ともにローマ王に選ばれた。教皇は、コッラディーノが帝位に就くのを妨げようと力を尽くした。後見人のルートヴィヒ2世はイングランドの金で買収されてリチャードに投票したが、その条件として、甥がシュヴァーベン公領だけは保つことを求めた。コッラディーノはコンスタンツ司教の支持を得て、1262年からメーアスブルク城に滞在した。一方、叔父のマンフレーディは、コッラディーノの代理人に任じられたのち、幼い甥が死んだことにしてシチリア王に即位し、教会と対立して破門された。1266年、教皇に送り込まれたシャルル・ダンジューにベネヴェントの戦いで敗れて戦死し、王国はシャルルの支配下に入った。
神聖ローマ帝国で得るものがないと見たコッラディーノの支持者たちは、イタリア南部のホーエンシュタウフェン家の領地の回復をめざした。ナポリやシチリアの男爵と、皇帝派を率いるガルヴァーノ・ランチャが、15歳の後継者に助けを求めた。1267年の夏の終わり、コッラディーノはルートヴィヒ2世や義父のゴリツィア伯マインハルトと手を組んでシャルルに対する遠征に乗り出し、ドイツ、スペイン、イタリアの兵からなる軍を率いてヴェローナに入った。しかしルートヴィヒ2世とマインハルトは資金不足から退いた。コッラディーノは破門され、教皇から、1か月以内にヴェローナとイタリアを去り、帝国、イタリア、シチリア王国に対するすべての主張を捨てるよう通告された。冬が過ぎると、フリードリヒらとロンバルディアを通ってパヴィア、ピサ、シエナへ進み、ローマに入ると、元老院議員エンリケ・デ・カスティーリャの支持を得た。教皇の脅しをものともせず南へ向かい、1268年8月23日、アクイラ近郊のタリアコッツォの野でシャルルの軍と向き合った。
激戦のすえ、皇帝派の軍は敗れ、コッラディーノは逃げた。トッレ・アストゥーラの海岸からシチリアへ船で渡れると考えたが、報奨を期待した土地の領主フランジパーネ家の者に追われて、シャルルの兵に引き渡された。シャルルは、危険な競争相手を除くため、ナポリのカステル・デッローヴォに彼を幽閉し、死刑を宣告した。10月29日、コッラディーノはバーデン辺境伯フリードリヒ1世ら7人とともに、死刑執行人ドメニコ・プンツォの手で、メルカート広場で斬首された。この死でホーエンシュタウフェン家は完全に滅びた。1351年、斬首が行われた場所に教会が建てられた。
同じ年に亡くなった人物
- 秦九韶 (1268年没)
- ピエトロ2世・ディ・サヴォイア (1268年没)
- Thomas the Archdeacon (1268年)
- フリードリヒ1世 (バーデン=バーデン辺境伯) (1268年没)
- ヨハン3世 (ブランデンブルク辺境伯) (1268年)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ・ビーベルバッハ (1982年没)
- カール・アマデウス・ハルトマン (1963年没)
- アンナ・シェーファー (1925年没)
- フランツ・ハルダー (1972年没)
- アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公) (1900年没)