伝記
秦九韶は、南宋の数学者である。字は道古。生年は1208年とも1202年ごろともされ、没年も1268年とも1261年ともいわれる。先祖にならって本貫を魯郡としているが、実際には四川の普州安岳県で生まれた。家の出は山東だったという。魯郡は当時、金の支配下にあった。南宋の官僚だった父の秦季槱に従って各地を転々とし、父が首都の臨安に赴任したときには、太史局に通って数学や暦学、天文学を学んだ。のちに父とともにいったん梓州に戻り、郪県の県尉に任じられた。以後は順調に昇進し、1244年には建康府通判に任じられた。
母の服喪を理由にいったん官を辞し、1247年に『数書九章』を著した。この書は不定方程式や、最高で10次までの方程式の数値解法など、さまざまな題材を扱い、測量や軍事の問題にも及んでいる。一次合同式をユークリッドの互除法と同等の方法で解くことで、中国の剰余定理と同等の結果を得た。これはヨーロッパでは19世紀にガウスが発表した方法と同等である。互いに素でない法の場合の解き方も示した。三辺の長さから三角形の面積を求める公式も示している。これはギリシャのヘロンの公式と同じものである。冬至の時刻をもとに暦の専門家が天文の数値を計算する方法を、初めて説明したともされる。中国の数学の書きものにゼロの記号を取り入れ、等差数列の和や、多項式を入れ子の形で評価する方法も扱った。この方法は今日ホーナー法と呼ばれる。
降水量の測定にも関心が深く、農業と食糧の生産にとって雨が重要だとして、天池盆と呼ばれる雨量計を考案した。これらの雨量計は1247年ごろの南宋で、気象のデータを集めるために広く使われたという。山の峠や高地には竹でつくった大きな雪量計が置かれ、これが雪の測定への最初の言及かともいわれる。降水量の測定の応用は、のちに『数書九章』にも記している。
数学の仕事を終えたあと、政治の世界に踏み出した。1254年には沿江制置司参議に任じられたが、政争に巻き込まれた。官僚としては自慢が多く、汚職があり、賄賂や敵の毒殺で非難されたといい、何度も職を解かれたが、非常に裕福になった。1260年には梅州知州に左遷され、まもなく病死したともされる。
同じ年に亡くなった人物
- Thomas the Archdeacon (1268年)
- ピエトロ2世・ディ・サヴォイア (1268年没)
- ラニエル・ゼン (1268年)
- フリードリヒ1世 (バーデン=バーデン辺境伯) (1268年没)
- ヘンリー・ブラクトン (1268年没)
同じ地域に関係する人物
- 廖仲愷 (1925年没)
- 祥興帝 (1279年没)
- 慧能 (713年没)
- 張九齢 (740年没)
- ロバート・モリソン (宣教師) (1834年没)